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【第三章】第四十七話

 あの日から毎日のように夢に見る。亡八に連れて行かれ消えて行くお凛の背中。必死に追いかけ転んだ先に、今度は海が現れる。

『海!』

 ようやく自分に会いにきてくれたのだとたまらず大声で叫ぶも、海は梅には目もくれず、見知らぬ女性と仲睦まじく歩き去って行ってしまった。悲しみに打ちひしがれ泣いている梅の頭上から、不意に懐かしい声で名前を呼ばれる。

『梅?』

 目の前にいたのは、女衒に売られた日から一度も会えていない母の姿。幼い頃の記憶と変わらぬ優しい笑顔を浮かべ、母は梅の近くに屈み込み尋ねてくる。

『どうした?兄ちゃん達とまた喧嘩したか?全く梅は泣き虫だなあ』
『ちがうのかあちゃん、うめこわいゆめみたの。みんなみんないなくなっちゃうの、一人ぼっちになっちゃうの』

 いつの間にか小さな子どもの姿になった梅は、母に縋るように抱きつき顔を埋めた。

『大丈夫、ただの夢だからね。母ちゃんここにいるでしょ』

 母の胸に抱かれながら、梅は静かに首を振る。わかっているのだ、今ある母の温もりこそ夢なのだと。
 いつまでも幼い子どものままでいたかった。家族に守られ、母の腕に抱かれて眠る、無邪気な子どものままでいられたら。こんな苦しみ、知らずにいられたら…



 巳の刻(朝10時)、明け六つまで客をとっていた遊女達も二度寝から目覚め、朝風呂と朝食を済ませるとすぐに昼見世の準備がはじまる。

「ねえ聞いた?今夜は玉楼の遊女総出で花火見物行けるんだって!」
「え?紫花魁だけじゃないの?」
「それがね、元々は蔦谷様が花魁と花火の絵を絵師に描かせたいってことだったんだけど、ほら、ここのところ玉楼も色々あったじゃない?だから景気付けに玉楼の遊女皆連れてってやろうって」
「さすが蔦谷様!やる事が粋!」

 身支度を整えながら、話しに花を咲かせる遊女達の今日の話題は、紫の上客である蔦谷と花火見物一色だ。
 普段籠の鳥の遊女達も、桜の季節になると客が金を払い、見張りつきで花見見物と称し吉原の外に出れる事がある。だがそれは滅多にないことで、今回のように、玉楼の遊女皆水深祭の花火見物に出かけられるとなれば、遊女達の心が浮き足立つのも無理はない。

「ある意味これもお凛のおかげかもね、何もなかったら、どうせ行けるの紫姉さんとお凛だけだっただろうし」
「でも何人か住替えになったのもお凛が原因でしょ?私達もしっかり客とらないと、いつ格下の見世に売られるかわからないわよ」
「お吉さん機嫌悪いもんね、お凛が住替えになった松葉屋、男が殺しあいした程の遊女がいるってんで大繁盛らしいわよ」
「でも千歳屋様から逃げて亡八が殺しあいって、美人てのも大変よね、このくらいが丁度いいのかも」
「あら、私なら千歳屋様から逃げずに花魁街道まっしぐらよ」
「いやいや私らには無理だって、何にも仕込まれてないんだから、そうだ梅、あんた曲がりなりにもお凛と一緒に引込み禿として育ててもらったんだから、あんたが代わりに花魁になりなさいよ」

 お凛の話が始まってから、なるべくひっそり息を潜めていた梅は、話をふられ思わず肩を竦める。

「いえ、私なんて…」
「やめなさいよ、お凛の親友で特別扱いされてただけの梅が花魁になんてなれるわけないじゃない。全く、なんでこんな子が佳乃花魁にも気に入られてたんだか。しかも突き出しはあの高野屋様だってよ」
「え?高野屋様?胡蝶姉さんの上客だった御隠居様がなんでまた梅を?」
「さあ」

 姉女郎達の言葉に、梅は俯き黙りこむ。高野屋にはつい先日、突き出しの御礼の挨拶をするため初めて会ったばかりだ。源一郎には、高野屋様は本当はお凛の突き出しをしたかったが事情があって梅になったと聞いているものの、その事情がなんなのか梅は知らない。

「全く、昔からあんたは上に取り入るのだけは上手かったもんね」
「…」

 お凛がいなくなってから、元々梅が引込みになった事をよく思っていなかった姉女郎達の梅への当たりはきつくなっていた。
 だが今の梅には、時に見守り助けてくれた佳乃も、どんな時も優しく声をかけてくれたお凛もいない。そして何より梅自身、禿の頃はあった、何くそという気持ちがなくなっていた。

「梅、身支度終わったなら今日も囲碁の相手して欲しいから私の部屋に来てちょうだい」
「あ、はい」

 居た堪れなくなっているところへ、丁度姉女郎の篠に呼ばれ、梅は助けに船とばかりに立ち上がる。篠は心中した胡蝶のかわりに格上げになった部屋持ちの遊女だ。
 新しくついた客に囲碁好きがいるらしく、留袖新造だった自分に囲碁の知識はないから教えてくれと頼まれ、梅も決して得意ではなかったが、時間がある時は篠の部屋で囲碁をするようになっていたのだ。

 しかし、梅が歩き出そうとしたその途端突然足をひっかけられ、梅は見事に膝をついて転んでしまう。クスクスと笑う新造仲間達を惨めな気持ちで見上げながら、梅は、佳乃の言葉を思い出していた。

『いいかい梅、人より多くもらえる者は、必ず人より多く憎まれる、これは仕方ないことだし世の常だ』
(私には、人より多くもらえる資格なんて最初からなかった…)

 待てども待てども現れぬ海に恋い焦がれ、親友を失った悲しみにくれながら、怠い身体に鞭打ち生きていく日々が、ただ毎日続いていく。考えただけで、沼の底に落ちていくような絶望感に駆られたがどうすることもできない。
 梅は、自分を蔑すみ見下ろしてくる遊女達から逃れるようにその場から立ち去った。


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