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第四十六話

 その日、お凛の住み替えはひっそりと行われた。お凛を見送る事は、誰一人として許されず、迎えにやってきた見知らぬ男に連れられ、お凛は幼い頃から暮らしてきた玉楼を去っていく。 

『おまえは特別に、中見世の松葉屋へ住み替えることになった。おまえが玉楼に与えた損害を考えたら破格の扱いだ』

 松葉屋へ向かう道すがら、お凛は源一郎の言葉を思い出し皮肉な笑みを浮かべる。幼い頃から恩着せがましく言われてきた特別という名の足枷は、お凛を雁字搦めにする呪いだった。切見世だろうと松葉屋だろうとやる事はどうせみな同じ、遊女として育てられた自分に求められているのは、ただ男に身体を売る事。 


「玉楼じゃ振袖新造だったらしいが、ここでのおまえは下っ端の遊女だ。売り上げが悪ければすぐに切見世に住み替えてもらうからな」
「はい」

 新たに辿り着いた松葉屋は、玉楼より遥かに質素で小ぶりだが、どこか優美な佇まいのある遊廓だった。下っ端と言われたにもかかわらず、着いて早々、四畳半程の一人部屋を与えられ、まるで部屋持のような扱いにお凛は戸惑う。

 昼見世がはじまる頃だというのに、時折見世の女達の声が薄らと聞こえはするも、玉楼にいた頃に比べたら静寂の中にいるような静けさだった。とそこへ、先程挨拶したばかりの松葉屋の楼主がお凛の部屋に入ってくる。

「お凛、早速おまえに会いたいというお客様がいらした、しっかりとおつとめしろよ」
「…はい」

 気が滅入りそうにりながらも、諦めるように返事をし、楼主が謙るように頭を下げ部屋に招き入れた客を見てお凛は目を見張る。

「久しぶりじゃな」

 そこにいたのは高野屋だった。高野屋は楼主に礼を言い去らせると、通りが見える開いた障子の前にそそくさと歩いていき、ちんまりと座りこんだ。

「胡蝶の礼をしに会った時以来か?」

 住み慣れた場所を離れた心細さもあったのだろう。玉楼で初めて会った時と同じく、嘘くさい笑みを浮かべている高野屋に親しみと懐かしさを覚え思わず頬が緩む。すると高野屋は、演技かかった驚愕の表情を浮かべ言った。
 
「お!どうしたその顔は、さてはわしに惚れおったな?」
「違います。なんでそうなるんですか?」

即座に否定するお凛に、高野屋は全然ダメじゃなと首を振る。

「新造だしも終えて、少しは遊女らしい思わせぶりな事を言えるようになったかと期待したが、禿の時と変わってないのう」
「どうせ私は、遊女には向いてないですから」
「まったく、相変わらず生意気なへらず口ばかり叩きおって。源一郎から全て聞いたぞ、玉楼でまた随分と派手にやらかしたようだな」
「…」

 自然と和んでいた心がすぐに硬直し、お凛は震える声で尋ねた。

「…どこまで、知っているんですか?」
「全てじゃ、お前が千歳屋の突き出しから逃げだし、自害しようとした事も、折檻された事も…それから、伊蔵のこともな」

 その名を耳にした途端、お凛は伊蔵の最期の姿を思い出し、張り裂けそうなほど胸に痛みが走る。

「…この見世は、御隠居様の息のかかった見世だと聞きました、全部聞いているのなら、なぜそんな遊女をここに呼び寄せたんですか?」
「千歳屋が焦ったのはわしにも責任がある。それに胡蝶が、お前の事を気にかけていた。亡くなった胡蝶の分まで、おまえにはここでしっかり稼いでもらわないとな」

 高野屋の返事に、お凛は自嘲の笑みを浮かべ首を振る。

「私は、胡蝶姉さんのようにはなれないと思います、御隠居様の期待には答えられない」
「なんだ、まだ死にたいのか?」

 高野屋に聞かれ、お凛は少し考えるように黙りこんだが、やがて、自らの心を絞り出すように答えた。

「…わかりません、ただ、自分が今なぜ生きているのか、なんのために生きればいいのかわからない。私にはもう、生きる気力も、死ぬ気力すら残っていません」

 高野屋はじっとお凛を見つめ、その瞳は、空虚となったお凛から何かを見つけ出そうとするように鋭く、お凛はこの小柄な老人に初めて恐れにも似た感情を抱く。

「伊蔵はなぜ、おまえを殺さなかったと思う?」
「…わかりません」
「忘八が言っていたそうだが、おまえは、自分が助かるために伊蔵を好いてるふりをしたらしいな?人の為に媚を売っていたおまえが、随分図太くなったじゃないか。それはつまり、生きたいと思ったからじゃないのか?」
「違う!私はただ、あんな男達に好きなようにされたくなかった!あんな奴らに犯されるくらいなら…」
「伊蔵の方がマシだと思ったか?相手に命を投げ出させても」

 核心をついたその言葉は、お凛の胸を切り裂く刃のように、罪の意識を深く呼び覚ます。

「私だって死にたかった!あの男と一緒に死んだほうがよかった!なのに、なんであの人は…」

高野屋の前でお凛はついに涙ぐみ、感情もあらわに声を荒げる。

「私は人殺しです、なんと言い訳しようと御隠居様の言う通り、自分が助かるために彼を騙した、好いてもいないのに、好いているふりをして…私は…」

 と、突然、高野屋がお凛を押し倒し、お凛の上にのしかかる。

「なにを!」
「なにをって、おまえを抱くに決まっているだろう、わしは客としてここへ来ておまえを買ったんだからな、いつまでもただ喋っていたって面白くもなんともない」
「…そうですね、貴方も所詮は千歳屋と同じ、私は遊女、余計なことを喋りすぎました」
 
 心のどこかで、高野屋は千歳屋とは違うと期待していた自分をお凛は心底悔やんだ。分かっていても、知らず知らずのうちに、怒りと悲しみで声が震えてしまう。
 
「まあそう恨みがましい目で睨むな、わしも折檻の痣が治り切ってないお前を今すぐ無理矢理抱くほど鬼じゃない」

だが、高野屋はお凛を宥めようとでもするようにそう言うと、信じられない提案を口にした。

「もしおまえがわしの身体を振り払い逃げることができたら抱かないでやってもいい。抵抗しないでやるから、その腕で、力いっぱいわしを押し除けてみろ」

 高野屋は言葉通り、お凛を抑えつけていた手を腕立てのように畳につけ互いの身体に隙間を作ると、お凛の両手が自由に動かせる状態にする。高野屋の意図は全くわからなかったが、お凛は言われるがまま、自分より華奢で小柄な高野屋の肩を力いっぱい押して引き離そうとした。

 しかし、細いとばかり思っていた高野屋の身体はお凛が思うよりずっと固く逞しくピクリとも動かない。どう足掻いても逃げられない状況に、お凛は思わず高野屋の顔を引っ叩こうとしたが、その途端、高野屋の手がお凛の両手を掴み畳に押し付け、お凛は身動き一つできなくなった。

「すまんが色男は顔が命だからな。叩かれるのは勘弁だ」
「っ…」

 高野屋の冗談めかした口調が、余計にお凛をやるせない気持ちにさせる。結局自分は、力でねじ伏せられれば逆らえず身体を開くことしかできない、男と同じ土俵にすら上がれない弱い女でしかないのだ。嫌というほど思い知らされてきた事実をまたここでつきつけられ、絶望と虚しさが広がっていく。

「わしのような爺さんなら、振り解けると思ったか?」

 更に煽るような言葉を投げつけてくる高野屋をお凛は睨みつけたが、高野屋は真剣な表情でお凛を見つめ言った。

「女は弱い、相手が油断していれば、おまえが千歳屋のマラを蹴り上げ逃げたように隙をつくこともできるだろうが、男が本気で力を出せば、女を押さえつけ意のままにするのは容易いこと。ならば女が自分の身を守る為に男を騙して何が悪い?」
「…」
「おまえが絵師に惚れて相手が出入り禁止になった事など、玉楼にいる人間は皆知っていた。
もちろん、伊蔵もな」

 お凛は目を見開き息を飲む。

「…え?」
「わかってても、騙されたかったんだろう」
「…嘘、だって…」
『本当に?本当にあんたも、俺を好いてくれているのか?』

 あの日の伊蔵の表情が鮮明に蘇り動揺するお凛に構わず、高野屋は言葉を続ける。

「惚れた女が自分を好いているという夢を、おまえは伊蔵に与えた。男に夢見させるのは色を売る遊女の大事な仕事だ。おまえは人殺しではない、伊蔵はおまえに救われたんだ。だから伊蔵はおまえを道連れにはしなかった。幸せな夢を抱えたまま、一人で死ぬ事を選んだ」

 そんなはずはない、綺麗事だと、頭の中で必死に否定しようとした。だが、死の直前、最後に自分に向けた伊蔵の微笑みと、高野屋の確信に満ちた声が重なり、お凛はついに嗚咽を漏らし慟哭する。高野屋は、泣きじゃくるお凛の頭を子どもでもあやすように抱き抱え、強い口調で言い放った。

「生きろ。おまえは遊女として、この松葉屋で生きていくんだ。もういい加減逃げずに覚悟を決めろ」

 お凛を包み込む優しい腕と裏腹に、高野屋の言葉は厳しく、お凛の望むものでは決してない。しかし、嘘か誠かもわからぬ高野屋の戯言に、確かに今救われている自分は、きっと一生、この男に逆らう事はできないだろうこともわかっていた。

「高野屋様の、仰せの通りに…」

 お凛の返答に、高野屋は本当かいのと言いながら意地悪な笑みを浮かべ、お凛の唇に口づけをする。

「どうじゃ?おまえにわしとできるか?」
「できますよ、それが遊女の仕事ですから」
「おいおい、それを言っちゃおしまいだろう。
高野屋様になら何をされてもかまいんせんとか、もっと色気のある事言えんのか?全くまだまだじゃな」

 互いに吹き出しそうになりながらも、お凛は高野屋の筋張った固い背中に腕を回す。まだ明るい天井を見上げたまま、お凛は、出会っ頃と同じように、ああ気持ちいいとお凛の胸で狸寝入りをしだす高野屋の頭を、愛おしむように優しく撫でた。

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