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「ダメなところ」「できない自分」 は才能
おのころ心平さんの『病気は才能』を図書館でようやく借りて(しばらく貸し出し中だった)、末っ子の授乳タイムにちょこちょこ読ませて頂きました。
否定するほど…
病気だけでなく、感情や価値観にも言えること。
否定してるうちは執着しているし、根底にある「何のためにそれを持っているのか」に行きつけてないからか、なかなか手放せない。
どうやら、そのお役目を理解して腑に落ちた時に、手放せたり、終わっているようだ。
直接する否定以外にも、「手放したい」「終わらせたい」が行き過ぎるとエゴが大きくなって、逆に握りしめる場合もあるけれど。
結局それも、「病気はダメ」「病気は治すべきもの」ってジャッジしてるから。
慢性的な症状や重症度が高いと、ここがなかなか根強いことを物語ってるのかも…。
あとは、潜在意識的に、病気であるメリット(病気だから構ってもらえるとか、〇〇をやらなくて済むとか)の方が大きいと、そりゃ症状あるままだよねって話。
い、痛い…。
メガネを外す前に、別のメガネを
ともかく、終わりにしようと思うなら、「そもそも、否定的に見ているメガネ」を外したい。
それも、さらっと。
普段メガネを付けている人が、顔を洗う時とか寝る前、「メガネを外そう」とわざわざ思わないくらいほぼ無意識に外す、くらいの感覚がホントは望ましい。
メガネを外す=ノージャッジ、中庸・センターに戻す
わけだけど、あまりに長いことメガネをつけていたら、それが自然になっちゃって、外すと逆に違和感があるのかもしれない。
それで、外したのにまたすぐかけ直して落ち着いてしまうのかも。
だから、最初からメガネの無い状態に慣れようとするんじゃなくて、まずは、今度は別のメガネ(肯定的に見るメガネ)をかけてみる。
今度は肯定に振り切ってもいいんじゃ?
つまり、否定に振り切った分だけ、今度は肯定に振り切ると効果的なのかも。
そう実感できたのが、おのころさんの『病気は才能』の考え方。
「病気はギフト」って言う人もいるけど、それだとなんか病気を嘆いたりしてはダメで、そこから何か良いものを受け取らなきゃいけない氣分にもなるような、ならないような…。
すでに終わった病気に対しては、そうだなぁって思えるけれど、渦中ではなかなか難しいかも。
でも、才能って言われると、「え?そうなの?どんな才能なの?」ってわくわく氣になってしまう感じが。
あと、似たようなもので、ばなな先生も、『怒りは本氣のパワー』と言っていて。
バツを付けがちな怒りという感情も、本氣で叶えたい想いのパワーが隠れているということを知った時、怒りをポジティブに捉えるメガネをGETした。
ポジティブにと言っても、多分、これまで否定的に捉えてきた程度が強すぎるから、
実際には、怒りそのものに対して「怒るのって良いことだよね!」「怒るの最高♪」とはいかないわけで(いく必要もない)、
でも、そうだからこそ、きっと、結果的に中庸・センターに近くなれるのかも。
エセポジティブとは違うよ
否定×肯定、ネガティブ×ポジティブみたいな二元論的な話題になると、「エセポジティブはうまくいかないよね」って話も出てくる。
私のイメージでは、「エセポジティブ」は、ポジティブじゃない感情を置いてけぼりにして、無理やりポジティブに振る舞う感じ。
病気や怒りに関しては、「嫌だな」「つらいな」「怖いな」「悲しいな」などのポジティブじゃない感情を確認した上で、でもそれだけじゃない視点があるんだよって情報をもらう。
そうすると、その感情をめくった下には、「才能」とか「本氣」が隠れているということを見ることができる。
そこが少しでも納得できると、エセじゃない本当のポジティブが生まれるから、無理やりじゃなくなる。
しかも、ネガティブを見ないふりした訳でもないから、その感情も拗ねない(はず)。
ダメなところや、できないことも
そう考えると、自分の「ダメだなぁ」と思うところや、何かが「できない自分」に対しても、否定しないどころか、肯定的に見るくらいの勢いで良いのかもしれない。
よく「ダメな自分、できない自分も受け入れよう」とは言うものの、「実際どうやって受け入れるの!?」ともがいてきた私。
ダメと思うところを箇条書きにして、ひとつひとつ丸をつける方法だとか、「仕方ないよ、それがあんただもん」と、尊敬する方のやり方を真似してみたり…。
それはそれで、効果あると思うし、他にも、セルフイメージを書き換えるためのアファメーションや、自分の想いと繋がる瞑想も大切だと思う。
でも、なんとなく、今年くらいからか、停滞感というかスランプのようなものも感じていたので、
この際、「ダメなところやできない自分も隠れた才能!そこに氣づけた自分はラッキー♪どうやって活かせるんだろう、わくわく♡」くらいに考えると良いのかもしれないと思った。
光と闇で完全
でも、書いていたら思い出した。
これまでも、いろんなところで聞いてきた
「欠点こそ、魅力的」とか、「短所は長所」とかの言葉たち。
「苦しかった経験こそ、誰かの希望になる」のも、ちょっと違うけど、似てると思う。
大枠はこれまでも知っていた考え方のはずなのに、今受け止めるとまた違った氣づきが起きるのは、新たなステージに進める門が開いたということにして。
やっぱり、この人間界では、どんな出来事も、光と闇の両方があって、どっちを見るか選ぶゲームをしているだけなのかな。
どっちを選んでも良くて、見る方を変えてみるのもまた良し。
結局はどれも完全だから。
ただ、完全だとつまらないから、不完全を感じられるように、どちらかだけを見て、魂的には楽しんでるのかも。
エクササイズゲーム
例えば、まさに、こうやって氣づきの記事を書いても、
「だからって、全ての症状や、毎回の怒りに対して、そんなふうに思えないんだよねー。
同じ失敗を繰り返して、あーあ、やっぱり自分ってダメだなぁ」
と思ったとする。
(というか、まさに思った私。)
ここで、一旦、その「ダメだなぁ」という感情や、「できない自分」を確認した。
次に、肯定的に捉えるメガネに付け替えてみる。
「でも、これが才能だとしたら、どんな才能?
なかなか行動に移せないとか、定着させられないってのを才能にすると…
深く落とし込んでから動くから、動いた時にめっちゃパワフルなのかも!
同じ原理をしっかり時間をかけて、いろんな応用問題を解いて、理解度をアップさせることができるのかも!」
など…。
とりあえず、考えてみて、楽しくなってくれば良しということで。
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