断られた時に幸せになる考え方
断られる悲しさや残念さの正体は
昨日、人を誘って、「断られる」という体験が3件。
どれも全て直前すぎる誘いだったから、と言えばそれまでかもしれないけど、
断られるというのは、悲しさや残念さがある。
残念=念が残る。
その悲しさや念の正体は何か?
紐解いてみたい。
一度は、自分あるいはその人の幸せになると信じて声をかけたものが、
相手の意思で、もしくは、そうでなくても、断った場合、
なんだか「自分が信じていた幸せは間違いだった」かのように感じる。
これが悲しいのだろうか。
あるいは、「自分には、相手を幸せにする力や価値がない」かのように感じることもあり得る。
そう考えるのは、もっと打撃が大きい。
人は本来、他の人を幸せにすることに最大の幸せを感じるという考えからすれば、そのチャンスを活かせなかった、
もっと言えば、
自分は人を幸せにできない、価値の低い人間かのようにも思えてしまうから。
でも、それは事実ではない。
「自分の幸せと相手の幸せ」というところに落とし穴があるのではないだろうか。
誘ったことが断られなかったとしたら…
自分は、相手は、本当に幸せだっただろうか?
自分のため、相手のため、になっただろうか?
その時の自分や相手にとって、最善最高(最幸)だっただろうか?
それは、神のみぞ知る領域…かもしれないけれど、次のように考えることで、断られたことによる打撃を減らすことができる。
「起きることは最高」
昨日、私が日頃から意識している、「起きることは最高」というインドの教えを実感できる出来事があった。
ちなみにそれは、誘っても断られず、時間やお金や労力をかけても誘いを受けてくれた相手に起きた出来事。
誘った場所と時間に合わせて来てくれる道中、電車の事故で到着が遅れるという出来事だ。
一見、それはネガティブな出来事のようだが、その出来事のおかげで、別の、よりネガティブな出来事に遭遇することを免れたのだった。
相手は初めはそう感じていなかった(「なぜ、よりによってこの日に遅れるのか」と嘆いた)が、
私はなぜか「これで良かったんだ」という確信のようなものがあった。
もし時間通りに着いていたら、別のトラブルが予測されていたのだった。
そして、そのトラブルは、相手やその周りの人たち、そして私にとっても、なかなかにありがたくない出来事となってしまうことが目に見えていた。
それを相手に伝えたら、確かにそうだと言ってくれた。
何が最善最高(最幸)か
人生は、自分の思い通りにいくことが必ずしも幸せではないらしい。
量子論と脳科学ベースの引き寄せ理論を唱えている小森圭太さんが何度か仰っていた。
自分が当初望んでいたこと(=自分の幸せに繋がると信じていたこと) が叶わなくても、
叶わないことで、思いがけないところからチャンスがやってきて、
結果、もっと大きな幸せに繫がった、
ということ。
誰しも振り返ってみると、そんな経験があるはず。
まさに、「起きることは最高」だ。
何が最善最高(最幸)なのかは分からない。
視野が狭くなっているだけかもしれない。
断られることを、否定と繋げない
「起きることは最高」だから、断られることに、悲しみや残念さを感じる必要は無い…
と言っても、もちろん、感じてもいい。
自分が感じることを悪としてしまうと、またそれは自己否定に繋がる。
その悲しさや残念さは、あくまで、「今回は」共に最善最高(最幸)な道ではなかった、
ということに関して感じるものだから、と思えばいい。
大事なのは、断られた=自分の存在価値をも否定された、かのように受け取らないこと。
断られたら、オススメの考え方
断られたら、「今回は、どんなところが最善最高(最幸)だったのだろう?」と考えてみる。
そして、
「次なる、自分と相手の最善最高(最幸)はどんな体験なのだろう?」と考えてみる。
そうすると、目の前の現実のいいこと探しに繋がるし、次なる互いの幸せ体験にもワクワクしてくる。
自分が相手を誘い、相手が断ること。
フラットな目線で見れば、ただそれだけのことであり、それ自体に善悪は無い。
反対のことを見つけることも大事だ。
つまり、自分が誘われて断ることもあることや、誘って断られないこともあることを。
すると、誘いに応えられなくても、誘われたら嬉しいと感じたり、感謝したりすることが多いことを思い出せるし、
誘いに応えてもらったことに喜びを感じて、共に幸せを味わえることに祝福したくなったりもする。
私たちは、この地球ゲームを遊びに来ているのだから、偶然に見える必然と共に、断られる体験も、悲しみや残念な気持ちも、貴重なエンターテイメントなのかもしれない。