臍の上の二つの思想
※写真はDIC川村記念美術館公式サイトより。
生まれ育った家のわりと近くに、DIC川村記念美術館という、田舎には珍しいバチバチの現代美術ばかりを集めた場所が在った。
湖を囲んだ緑豊かな庭園、落ち着いたカフェー・レストランも設われ、幼い頃から家族と時々通った。
常設の内容に、少女のわたしが特別お気に入りだった作品がある。フランス生まれのシュルレアリスト、ジャン・アルプの『臍の上の二つの思想』というブロンズ像である。
その像はブロンズ台の中央に凹んだ孔の周りを、二つの[何か]が這っている。一匹は孔の中をまるで覗き見ているかのように見える。たったこれだけの構図なのだが、冷たく鈍い金属の光沢が、対峙しているうちに不穏な肉感を帯びてくるのだ。[何か]は芋虫か蛞蝓か、むにむにぷにぷにしたものに見えてくる。この不気味な逸品に冷やっとするのが、少女のわたしのお気に入りだった。
今年30になるらしい私は、千葉に小さな部屋を持った。テレワーク推奨のこんな御時世に楽しいのは何より、お気に入りの物で部屋を飾ることなのだが、先日作ったばかりの新しいコーナーを眺めてふと気付いた。額装した古い医学書の版画、蚤の市で迎えた白い花瓶、壁には奈良の博物館で買ったポストカード、最近買ったばかりのビザンツ帝国の分銅…。それらは共通に、『ひとつ孔』を持っていた。
どうも、ひとつ孔、窪みの在るものに惹かれるらしい。30年近く生きると、些細なものに重ねる想起やイメージのヴァリエーションを沢山得てしまう。ブラックホールや蟻地獄などの自然物から口や臍や女性器のそれ、存在物だけではなくーいつか読んだ論文に記してあったー祈りや呪術、宗教の意義とは[完結した人間の世界に“孔”を開け、超越者に繋がること]などという、いにしえの行為やその機能についても。
惹かれるものの共通点とその意味の奥行に気付いた嬉しさも束の間、なんだか疲弊してきてしまった。無意味さを耐えることが出来ない自分に、この頃やや疲れてきている。少女の頃のように、正体の分からないまま時間を掛けて対峙するより先、理由と意義と根拠が全てを回収する。逃げ場がないのだ。
早めにお風呂を溜め、いつもよりゆっくりと浸かった。長い溜息が漏れた。湯の中で臍の窪みをなぞりながら、お気に入りだったあの像のことを考えた。不気味なあの孔のこと。そして、ふと思った。
何故、[二つの]思想であったのだろう。
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