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におい

じかに触れなくてもせいぜいに分かるもので
ごまかしながら
わたしたちは十分に生きれる

画面をスクロールしたらだいたいにそれを美しいとわかり、それが嫌なものとわかる
イヤホンをつけたらだいたいにその音を好きとわかり、その声を嫌とわかる

においはどうだか
たとえばこれから、このお料理の香りはとても素晴らしい、なんて伝えることに
スマホからフワアってにおいが噴出される機能とかが開発されるだろうか

たぶん、誰も開発しない
じかにこの鼻に入り込んでくるものだけで、においというものは人間に十分なのだ
わたくしの個人的な領域に作用する量分だけで、恐らく皆、いっぱい、いっぱいなのだ

油絵の具のチューブを絞ると
べたっとした油分のにおいがどうも鼻から取れない 祖父のアトリエのことを思い出す
仏像やら古壺やら朽ちた薔薇やら、乾き切っても湿ったにおいを醸し続ける油彩画たち わたしはそれらが死んでいるのか、生きているのか よく分からなかった

アトリエの片隅に裸婦画があった
だらりとベッドに横たわりこちらを眺める
あのひとがきらいだった
わたしはあれを見ちゃだめなんだ、と幼心に思って、与えられたスケッチブックに水色の水彩絵の具をいっぱいに塗ったけど、水色の水彩絵の具のにおいは分からなかった。
アトリエ一杯に篭った、重い油のにおいだけがあった

嘘ものの生理が終わって固まった血を捨てるとき、そのにおいを嫌に思う あのひとの黒々と開いた目がわたしを見てる
あのひとは誰なの?って聞く前に祖父は亡くなって、掠れかけてる記憶の中で、死んでいるのか生きているのかわからない真白いからだのにおいが、ぬるっと鼻に入り込んでくる
あなたは誰なのってゴミ袋を結び綴じても、決して取れやしない こびり付いたそれを

母は幼いころ、柘榴が嫌いだったと言う
熟し落ちては庭の地面に赤黒いぶよぶよの中身をぶちまけ、あの酸っぱい匂いが嫌だったと

追記:
先日伺ったルイーズ・ブルジョワ展の一室は、鬱蒼と重い匂いで満たされていた。
「油絵の具のにおいがする」とつい、こぼれた

《罪人2番》(1998) Louise Bourgeois
I have been to hell and back. And let me tell you it was wonderful. Mori Art Museum, Tokyo, 2024


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