自分で生みだしたnoteなのに、自分の文だと思えない
noteを書きはじめて三週間たった。
自分でnoteを書いているが、読んでみると「たしかにそう思ったけど、この言葉づかいはホントにウチなのか?」と思ってしまう。
気取ってるというか、お堅いというか、そんな感じがする。
現実のわたしはかなり舐めた口調だ(と思っている)。
「ウチさ〜なんかさ〜」とヘラヘラ話してしまうので「キミはおバカだね〜」とよく言われていた。一方、noteでは書き言葉をつかっている。さらに「である調」だからお堅い雰囲気だ。だからnoteと現実のギャップが大きい。
noteの内容は、自分の気持ちや考えを書いていることが多い。noteと自分の人格を分けていない。なのに、現実ではアホ、noteではマジメみたいな現象が起きている。
では現実ではアホ、noteではマジメというギャップはどこから来ているのか?
このギャップを埋めたい!noteでもちょけたい!
ということで、どうすれば「アホだ!」というか「自分のnoteだ」と思えるようになるのか、考えていく。
まず「である調」を使っているのがいけない説を検証してみる。
「です・ます調」に変えれば、読んだとき「こりゃウチが書いた文だな」と思えるのだろうか?
「です・ます調」は柔らかい雰囲気がある。しかし「です・ます調」は敬語だ。柔らかい雰囲気が出せたとしても、気取った感じ、お堅い感じはしてしまう。
では文語をやめてしまうのはどうだろうか?
ビミョウだ。馴れ馴れしいと感じてしまった。親しみやすさをこえている。
あと、読みにくいかもしれない。口語では「てにをは」の助詞をはぶいても理解できるが、文で見ると違和感を感じる。
短い文だと違いはでないが、文が増えていくと違和感が増していく。
そもそも「です・ます調」「である調」で悩む前に、基本的な文章の作り方をもっと勉強したほうが良さそうではある。
が、今のところ「である調」かどうか、より他に原因がありそうだ。
”文だから“ちょけることができない説。これも現実ではアホ、noteではマジメに影響していると考える。
というのも、ちょけることができるのは、相手ありきの可能性がある。
友人から死にたいと言われても「お〜ん?どしたの〜ん?うんうん。はえ〜ウチにお金があればアンタを連れ出せるンだけどなぁ〜」とゆるいテンションで話してしまう。死はマジメなトピックだが、このとおりのアホさだ。
やはり“文だから”ちょけることができなかったのだろう。
いや…そういえば…。学生時代のわたしはネタツイに命かけていたな。だから文でもちょけることができるはず。
となると、文だからちょけることができないのではなく、わたしの頭の中が本当はマジメなのかもしれない。
あれ…?ちょっとなに言ってるか分からない。自分で。
なにが言いたかったのかというと、相手がいなくても、文でも、たとえマジメな話だとしても、わたしはちょけてきた。だからnoteでもちょけることができるはずだ。
いやいやいや。noteに比べてX(旧Twitter)の文は短い。だから、気持ちや考えを長い文で表現することに慣れていないのだ。
”文だから“ちょけることができない説は当たっているかもしれない。長い文でちょけることに慣れていこう。
最近のわたしはちょけるための筋肉が落ちている説もある。
学校だいすき学生時代は「こんなこと言ったらおもしろいかな?」と毎日コミュニケーションについて考えていた。
しかし今は無職だし、お金ないし、しばらく人と会っていない。コミュニケーションのことなんてまったく考えていない。
ちょけるための筋肉が落ちている説は当たっているな。ちょけるための筋トレが必要かもしれない。最近のわたしはおもしろい!と思えることについて考えてなかったんだな。
では、学生時代のように、おもしろさについて考えてみるのはどうだろうか?無職だからコミュニケーションでおもしろさを考える必要はない。というか機会がない。しかし、noteをおもしろくしようと考えることはできる。
現実ではアホ、noteではマジメというギャップはどこから来ているのか?そして、どうすれば「アホだ!」とわかってもらえる文が書けるのか?について考えた。
現時点では”文だから“ちょけることができない説・ちょけるための筋肉が落ちている説が有力だ。
どうせ吐きだし口のない考えごとが、絶えずグルグルしている。
だから、noteに吐きだし続けることで、長い文に慣れていこう。
そして、どうちょけていくか考えていく。
「これはウチが書いた文だな!」と思えるように頑張るぞ〜!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?