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エピローグ:つか子と「あの人」

今どこにいるのだろう。

あついカーテンにさえぎられ朝の光は入ってこない、カーテンのめくれたひとすみのほかは。。。

海のそば。。。岩。。。農場。。。そう、おもちゃのトラック。。。そして教会。。。満月のようなあいちゃんとあの人の柔らかい表情!

いきなりあの人への熱い思いが湧いてきた。

大急ぎで着がえドアの外に耳を澄ませた。

ノックの音で跳び上がったつか子はドアを開け、眼の前に立つあの人を見上げた。藍色の上っ張りに辛子色のシャツがのぞいている。

つか子は立て続けに「おはよう!きのうはありがとう。ほんとにありがとう。あなただから。。。」まだ何か言おうとしている。

それには何も答えずに、あの人はそのままほんの二、三歩部屋に入りドアを軽くしめ、そこですっぽりとつか子を抱いた。

つか子はその胸に顔をうずめた、じっと眼をつむって。それまでの胸の動悸がしずまって、内で何かが溶けていくのを感じた。

すると、あの人はつか子の耳に「ただいま」とささやいた。
つか子は「おかえり」と自分でもびっくりするくらい大きな声でかえした。

そして背伸びして今度はあの人の耳に「ただいま」とささやいた。するとつか子をもっと自分に引きよせて、つか子の耳に「おかえり」とささやき返した。

ただいま    おかえり     ただいま      おかえり

つか子は日本語にこれほど美しい言葉はないという思いでいっぱいになった。

30年も日本語を教えるのを職業にしてなぜ気づかなかったのだろう。

おかえり     ただいま      おかえり     ただいま  

つか子の胸は膨らみ目をつむったままもっともっとあの人の胸に自分の身を寄せた。二人はそのままベッドに倒れこんだ。まるで二匹の犬がたわむれるように。身体中に染みわたる感覚、手先も足も血はめぐり今まさに生きているという思い。

「我が家」。。。たどり着けるなんてとうてい思えないほど長い旅だった。その旅が今おわった。からだ全体、張り詰めたところがなくどこもゆったりとした。

胸いっぱいふかく息を吸い込み、もう一瞬。

するとほとんど同時に「朝ごはん?」「お腹すいた?」それで二人は助け合いながら起き上がった。つか子はふと寝転んでいた草原から立ち上がるずっと若い二人の様子が目に浮かんだ。秋の陽のふりかかる中で。

               ・・・

時間のせいだろう。朝食のカフェテリアには人が少なく海に向かう窓際の席もいくつも空いていた。

ビュッフェには定番の朝食のほかに海の美味も並んでいる。
菜食のつか子がなぜか甘エビをみて皿にとった。「食べられるの?」内からの声が聞こえる。

   「飲み物持ってくる、つか子もコーヒー?」皿をおいて、座らずにあの人はそのままコーヒーをとりに行った。

コクンとうなずいたつか子は、指揮者のように動くその背を眼で追いながらお皿を前にして座った。

そのとたん思い出した。「あれは三ちゃんダ!」

ネコの名は三ちゃん。吉本ばななの『幸福の瞬間』のネコ。大好物のエビを前にするとおかしな鳴き声を出し、「これ食べてもいいの」といった仕草をして、オーケーがでるとすぐに「何のためらいもなく」かぶりつくのだった。

あれは、三ちゃんだ!

思い出したとたん、つか子は笑いがこみ上げてきた。ものすごく嬉しくておかしくて笑い出した。

大ぶりの白いコーヒーカップを両手に持って近づいてきたあの人は「どうした?」と声をかけた。

すると、つか子はそれを聞いてもっとおかしくなって、もう笑いがとまらない。ネコの三ちゃん、こんな大事なことを知らないんだ、あの人は。。。それがなぜかおかしかった。

もうガマンできない。幸いベランダに通じるドアが開いていた。それを押してベランダに出たつか子は、「そうだ、三ちゃんダッタ」と言いながら、身体を二つに折って息がつけないほど笑い続けた。

つか子が涙もろいのはもうポカラで知っていたあの人だが、こんなに笑うつか子は昔も今も見たことがない。つか子だってそうだ。こんなにおかしくてお腹の底から笑ったのはいつ以来だろう。母親が「ハシが転んでもおかしがる」年頃と呼んだ中学生のころだろうか。

生まれて初めてのような気がした。

今、自分はヘビじゃない、コンドルでもない、エビのご馳走を前にしたネコの三チャンだ。

               ・・・

笑いがすっかり収まったわけじゃないが、お鍋の底のようにお腹の底の方でぐつぐつしてるだけで一応落ち着き、あの人のいる席に戻った。

見ると、ケータイでニュースを読んだり知り合いからのメールを見たりして待っててくれたと思っていたのだけれど、あの人は、ケータイを手にしていない。

「ケータイは?」

   「部屋にある」

「えっ、忘れてきたの?」

   「ううん、つか子と丸ごと一緒にいようと思って」

「ほんと?わあっ、あなたに惚れなおしそう。。。」

そんなつか子の爆弾発言に答える代わりに

   「一緒だったら、どんな生活だったのかな」

「笑ったり泣いたりの毎日。。。ううん、あなたもわたしもものすごく忙しくて、泣いたり笑ったりする暇もなかったりして」

   「うん、でも、子どもができたら」

それを聞いて、つか子は黙った。

「好きな人の子供を産む」まっとう正直になれば、そう言っていいのだろうか、古今東西、多くの女の願いでもあったろう。不思議なことに、つか子は母親になりたいと思ったが子供を産みたいという強い願望は覚えていない。

自分の人生をみると、母親になったというところは何よりも大きい。

あの人との子どものことに思いがいく自分を制した。無理したのでなく、自分が母親だという事実の前には、ほとんどと言っていいほど意味がない気がした。

               ・・・

そこで、三チャンに戻った。

三チャンのこと、知らないんだ、この人。でもそう思い出すと、また笑いがこみ上げてきた。知らないんだ。知らないんだ。。。

でもこの人だったら、言ったらすぐわかって一緒に笑い出すかもしれない。

「三ちゃん」

  「三ちゃんってダレ?」

「サンちゃんはネ」と言い出したら、また笑いで続けられない。

そして、急に涙が出た。。。こんなに笑ったことなかった。ずっと。。。それで今度はそんな自分を思って悲しくなったのだろうか。

「サンちゃんはネ、サンちゃんはネ」と言いながら、手の甲で涙を拭こうとした。

ああ、ここ数十年、本当の笑いなんてしないで過ごしたのかと、今度は胸が詰まった。。。

それで知った。今、自分が強烈な幸福の瞬間を味わってることを。

それだけはわかった。

それで、「サンちゃんは、強烈な幸福の瞬間」と意味の通じるはずもないことを言った。

そうなんだ。今、つか子は、強烈な幸福の瞬間を味わってる。

ここにくる長い長い間そして、これから先どのくらいあるか知ることなんてできない時間のこと、そんなことどうだって良い。

今、たった今、この瞬間だけ。

穏やかで平和で安心できる幸福じゃない。

強烈でいきなりやって来て、またいきなり去ってしまうだろう

継続しようがない瞬間。

今つかまないと

もう二度とはつかめない。

三チャンみたいにガツガツと

息がつけないほど、狂おしいほど

食らいつかなきゃ

味あわない前に 

跡形もなく

消えてしまう

   強烈な

      幸福の

         瞬間。

           
               (おわり)

つか子と「あの人」
あらすじ

家族の猛反対の中、東京で自立した20代のつか子。40数年後古い日記が見つかり、米国で住むつか子が20代の自分と「出会う」。つか子の胸に「あの人」との逢瀬と別れが蘇る。

命尽きる前に今一度「あの人」に会いたいと願う。ヒマラヤの麓ネパールのポカラでの再会を夢みる。思いがけなく夢が叶うがあの人は沈黙を守り自分の人生を語ろうとしない。

旅の最後の晩一つの思い出に助けられ二人は最初で「最後」のどこまでもやさしい親密な一時をもつ。

数週間後ノバスコシアへの旅につか子を誘ったあの人は初めて心を開き悲劇にみまわれた半生を明かす。聴き入ったつか子はあの人も自分も愛する人たちとの繋がりで生かされていることに気づく。

目次:
プロローグ     :わたしのダブルに会っちゃった 1 - 6

第一章 春浅く  :つか子の願い・出会いと別れ・出国
第二章 春深まる :つか子の生きてきた道・躊躇するつか子
第三章 夏の夜明け:大自然・再会・「あの人」の沈黙・初めてで最後
第四章 秋の光  :「あの人」の生きてきた道・たった今・繋がり

              


つか子と「あの人」 (創作大賞2024応募作品) をお読みいただければ大変嬉しく思います。
(このエピローグは、つか子と「あの人」の続きです。)

新作品: 『救急車のサイレン』    『みじか〜い出会い・三つの思い出』 
     『夫の質問:タンスの底』  『外せないお面』 

『スイカと鳩:ひとりの小さな平和活動』 『昭和40年代:学生村のはなし』『クエーカーのふつうしないこと:拍手』
『アフリカ系アメリカ人:一瞬たりとも』   『明治の母と昭和の娘』 
『本当の思いを云わ/えない本当の理由』 
『伝統ある黒人教会のボランティア』   
『スッキリあっさりの「共同」生活』 


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