自己肯定感の高め方
先日のエントリーで「自己肯定感が低い人が増えてきている」と書きました。この辺の雑誌の特集(「自己肯定感上がるgirlに」「半径3メートルの自分アップデート」)や書籍を見ても、そうなんだろうなあとつくづく感じます。
(そもそも「自己肯定感」というワード自体、ガチガチの心理学用語ですからね。こうして見出しに使われるようになっただけでもビックリ。)
そして何を隠そう、僕自身も自己肯定感がとても低い人でした。「でした」と過去形にしていいかはわかりませんが、それでも去年1年間でだいぶ持ち直したように思います。自分の身に何が起きたのか、少しお話ししてみたいと思います。
※手っ取り早くその方法を知りたいという方は、文章後半の「どうすれば自己肯定感は高まるか」の章をご覧ください。
▶︎「自分は存在価値がない」という思い込み
思い込みではなく“呪い”と言ってもいいのかもしれません。僕は僕に「自分は存在価値がない」という呪いをかけていた。そのことに気づかされたのが、西村佳哲さん主催の「インタビューの教室」という、3日3晩インタビューの特訓をするワークショップに参加した時でした。
僕は人の話を「きく」のが好きです。ですが、ワークショップに参加する前と後ではその性質がガラリと変わりました。以前僕が好きだった「きく」は、別の漢字で表せば「訊く」でしょうか。ごんべんに刀と書いて「訊く」ですから、相手に切りかかるようにズバズバと質問を投げかけます。そして、相手が気づいていない潜在意識までたどり着いて「実はこんなこと思ってない?」と核心に刀を突き立てる。
「わあ!そうかもしれない!」そうやってパアッと明るくなる相手の表情を楽しむことが好きでした。僕はこの「きく」を、“心の温泉を掘り当てるあそび”と呼んでいたくらいです。そんなでしたから、インタビューを専門的に学ぶことで、このあそびをもっと面白くできるかもしれない。そんな期待を抱いてワークショップに参加したところ、教えてもらった「きく」が全然できない。というか、僕がそれまでしてきた「訊く」はご法度中のご法度でした。
具体的にどんな「きく」を習ったのかを語り出すと本筋からさらにズレてしまうので割愛しますが、問題はなぜ僕は相手に切りかかるような「訊く」をしてしまうのかです。じっくり内省したところ、どうやら僕は「訊く」ことで、会話する相手に喜んでほしい。そのためにも相手の潜在意識を掘り当てたい。そう思っているらしかったのです。
つまり裏を返せば、ただ話す・きくだけでは、相手に申し訳ないと思っている。もっというと“自分なんかとただ話す・きくだけでは時間がもったいないですよ”と思い込んでいる。たどり着いたのは、どうやら自分には「ただ居るだけでは自分は存在価値がない」という強い思い込みがあるらしいという結論でした。この結論には、激しくショックを受けました。
▶︎自己肯定感が低い、とはどういう状態か
ひと言でいえば「自分は存在価値がない」という思い込みが潜在意識の根底にある状態なんじゃないかと僕は思っています。なぜこうした思い込みが刷り込まれてしまうのかを紐解いていくと、①いい子でいることを心がけてきた ②SNSがつくる努力と幸福の比較社会 という2つが大きいような気がします。
①いい子でいることを心がけてきた
人は誰でも、家庭や学校の環境に強い影響を受けます。僕はといえば、家庭では親が四六時中喧嘩を繰り広げ、学校ではヤンキーたちにいじめられて育ちました。
家に帰ると親が毎日義務のように喧嘩しているので、子供としては当然気を遣います。家事を手伝わないだけで怒号が飛んできますからね。親の顔色を伺い、息を殺してできるだけ怒らせないように配慮し続ける日々。つまり自分の「やりたい」よりも大人や周囲の「やってほしい」を優先してしまう“いい子ちゃん”が出来上がります。
学校に行ったら行ったでヤンキーにいじめられますから、ここでも大人しく暮らしながら、自分はそうならないよう先生に褒められるような態度をとります。それがヤンキーたちの鼻についていじめられる、という悪循環。
この地獄から抜け出すために、僕は鬼の察する力を身につけ、要領のいい人間になりました。散々悩んで、考える力を身につけました。ひとりでいられる勉強に逃げ込み、結果を出すことで親を喜ばせて居場所を獲得しました。するとどうなるかというと、自分をないがしろにして他人を優先することで結果を出して褒められる(=うまくいく)、というパターンが染み込んでいきます。このタイプはおそらくサラリーマンとして活躍します。雇われの身で仕事をするって、そういうことですからね。
ですが、残念ながら自己肯定感は一向に高まらない。それを何度繰り返したところで、自分という存在価値は他人の期待ありきなので、自分で自分の存在価値を認めるという意味での自己肯定感には一切つながりませんから。
②SNSがつくる努力と幸福の比較社会
こちらを詳細に説明する必要はきっとないでしょう。なぜ多くの人が自己肯定感の低さに悩んでいるのかといえば、やはりSNSの影響なのだと思います。
どんなに努力したって、上には上がいる。その事実をまざまざと突きつけられ、いつからか僕らの幸福は相対的になりました。モテたい。認められたい。注目されたい。そうした承認欲求は、さみしさと表裏一体となって、加速度的に高まり続けます。人間の欲望は青天井です。求めれば、満たされることはありません。それをやめることもできません。
そんな環境ですから、誰もが誰かと比較すれば「わたしなんて…」となる状態です。どうしたって自分の存在価値を疑い、自己肯定感は低くなります。そして厄介なことに、「わたしなんて…」と諦めることは楽で居心地がいいんですよね。自分の努力と幸せを誰かに比較されることに怯え、自ら幸せを遠ざけてしまう。難しい状態だなと思います。
そうなってくると、自分が努力して幸福を掴み取るよりも、他人の粗探しをして突き落とす方が、自らの相対的な幸せを簡単に実感しやすくなります。“いい子”で育った人が多いから、常識から飛び出して幸せを抜けがけする人に厳しいという側面もあるでしょう。そうしてSNSの住人たちは、自己肯定感が低く他人の評価に弱いという免疫不全に陥るとともに、抜けがけの幸せを許さない滅菌社会の攻撃的な監視の目が光る。ここ1年はそんな空気感をひしひしと感じます。
▶︎どうすれば自己肯定感は高まるか
2つのステップがあるように思います。以下整理していきます。
①「やりたいけどやめてしまったこと」を自分にやらせてあげる
自己肯定感が低い人の根底には「自分は存在価値がない」という思い込みがあるのではないかとこれまで述べてきました。そうなった原因のひとつに、自分の「やりたい」よりも大人や周囲の「やってほしい」を優先してきたと書きました。
じゃあどうするか。他人を優先してやめてしまった自分のやりたいことを、自分にやらせてあげる。たったこれだけです。
家族の節約のために、バッグを買うのを諦めた。上司にお願いされた仕事をこなすために、休日キャンプに行くのを諦めた。どんなに小さなことでもいいです。そうした「他人のために諦めてしまった自分の“やりたい”」を、ひとつずつ、丁寧に自分にやらせてあげてください。それを繰り返しながら、自分だけは自分を大切にしてあげる癖をつけてください。
他人のために、自分のやりたいを犠牲にする。それを繰り返すうち、自分でさえ自分という存在を軽視し始めます。それをこじらせると、そもそも自分にやりたいことがない、という思い込みにまで発展してしまいます。
そんなわけがない。そして、あなたという存在が大切にされないなんて許されるわけがない。繰り返しますが、どんなに小さなことでもいいので「自分のやりたい」をまず自分が叶えてあげてください。すると少しずつ、本当に少しずつですが、自分という存在を大事にできている手応えが生まれます。そしてその手応えは必ず、自己肯定感につながります。じゃんじゃん自分を甘やかしましょう。
②「存在価値がない」という思い込みを自覚する
もうひとつの方法は、何の解決にもなっていないようで、実は大きな効力を発揮します。たいていは「わたしって自己肯定感が低いから…」で止まってしまうのですが、大切なのは「なぜ自分はそう思ってしまうのか」を自覚することです。
たとえば「初詣の後はみんなで宅飲み〜」というキラキラした友達の投稿を目にして、ひどく落ち込む自分がいたとします。それに対して「わたしって自己肯定感が低いから…」で自己解決してはいけません。なぜ自分は落ち込んでしまうのだろう、と考えてみると、たとえばですが
・自分が呼ばれなかったことに怒りを感じる
・怒りを感じるのは、さみしいから
・本当は自分も誘って欲しかった
・あるいは自分にもそういう友達がほしかった
・つまり自分は悲しくて怒っている
・ではなぜ自分はいま友達に囲まれないのか
・自分が誘わなかったから
・あるいは誘ってもらえなかったから
・なぜ誘わない?誘われない?
・自分の想いに応えてもらえる自信がない
・自分には誘われるだけの価値がない
・自分は自分を価値がないと思っている
みたいな思考プロセスを辿ると、出発点が「自分は存在価値がない」という思い込みだったことがわかります。
それに自分で気づいてしまうことは、とっても“痛い”です。痛すぎるから、凍結して麻痺させて、心の奥底に頑丈に閉まってある。その痛みに向かう出来事(友達のキラキラ投稿)が起きてしまったら、素早く落ち込んだり、「わたしって自己肯定感が低いから…」と言い訳することで、心の奥底にたどり着かないようにしている。だって触ると痛いから。
だからこそ、「自分は存在価値がない」と自覚する行為は、痛みに慣れる行為とも言えます。痛みというのは慣れてさえしまえば、そんなに怖いことではなくなります。友達のキラキラ投稿を見て、怒りや虚しさが胸の内側から立ち込めた時、「ああ、わたしってまた、存在価値がないって思い込んじゃってるんだな」と自覚する。すると次第にその痛みに慣れて、ひどく落ち込んだり、「わたしって自己肯定感が低いから…」と言い訳したりする反射的な行動も落ち着いていきます。痛みに慣れて、過度に避ける必要がなくなるからです。
自分の潜在意識に眠る“痛み”に触れないよう、無意識的に避ける行動をしてしまう心理構造をメンタルモデルといいます。自己内省が得意な方はこちらの方法もお勧めしますが、感情のコントロールが必要でかなり難易度が高いです。自己肯定感を高める方法として一応2つ紹介しましたが、1つ目ができれば丸儲けだと思います。
▶︎僕の場合、どうやって克服したか
前述の方法を2つとも実践しました。効果が大きかったのは1つ目の「やりたいけどやめてしまったこと」を自分にやらせてあげるだったように思います。
特に僕は広告業界なんていうところにいますから、つくる仕事のほとんどすべてで話題になること、世間から評価されることが求められます。他人のために努力し、承認欲求は高まるばかり。とても悪いリズムの中にいたと思います。
その葛藤を克服するために、なんだか心理学や社会学の話ばかりをしてきましたが、とにかくそうした知見を身につけて実践した結果、上記の方法に行き当たりました。もともと僕が広告業界に就職したのは「妹や家族を養うため」という他人ありきの動機が半分を占め、自分の夢を半ば諦めた経緯があります。
だから、他人のために諦めてしまった「やりたい」を、やらせてあげる。具体的にはソーシャルビジネスで起業する、ということなのですが、それに本気で取り組み始めてからかなり調子がいいです。結果どうなるかは自分もまだわかりませんが、「今期は大きな運命が動き出す」と、しいたけ占いで書いてありました。
少しだけ、自分に期待してあげている真っ只中です。