体罰の限界を知るたった2つの質問
都立町田総合高校の体罰動画が問題になっているのを昨日はじめて知った。
当初は先生の行動が問題視されていたが、実は生徒側が計画的に炎上させようとして仕掛けたことが新たにわかり、問題はより複雑になっている。テレビやネットでは生徒の行動に対する非難が集まる中、「体罰だけはダメだろう」と主張した武井壮さんにも批判が集まっているらしい。
全部ひっくるめて、胸糞悪い。それが正直な気持ち。そこには、自分自身の体罰に対する知識と認識に対する甘さみたいなものも含まれている。
以前何かの本で、「体罰の限界を自覚する2つの質問」というものを読んで深く頷いたことがあった。手元のメモ帳にもエッセンスを書き残している。
①はつまり、素行の悪い生徒に落ち着いた生活を送ってほしい。教師である自分に礼儀正しく接してほしい。そんな内容になるだろう。
問題は②のほうだ。仮に生徒が教師に殴られることで言うことを聞くなら、その理由は「逆らうと怖いから」になる。そうした理由から生徒に望み通りの行動をとららせるのは、本当はおそらく、体罰した教師本人も望んでなどいない。ここに矛盾がある。
心の本音では、「周りの生徒に迷惑をかけてはいけない」「目上の者に対して敬意を払って接したい」といった理由をしみじみと自覚してもらうことで、教師に対して慎ましく接し、落ち着いた学園生活を送ってほしいのだ。だからこそ体罰に頼ってしまうことは、生徒へ本当に望んでいる理由を自ら奪ってしまうことに他ならない。
2つの質問を通し、その事実に気がつく感度を磨くことで、むやみな体罰は減るのではないか。そう思っていたのだが、上記の記事を読むうちに、人間の心はそんな単純にできてなどいないということをまざまざと思い知った。そして多くの人がそう思ったからこそ、今回の件についてはある種「仕方がない(ときに必要な)体罰」と認識し、先生だけを一方的に罰した学校や体罰禁止の声を非難しているのだろう。
個人的に考え直したのは、体罰に頼らないためには一定の前提が必要となるのではないかということ。その前提とは「生徒側が、他人の気持ちを想像し共感する感度を持ち合わせる」こと。そして「そのための対話ができる」こと。
相手の気持ちを想像する気がない。共感できない。そういう自己中心的な人間と共同生活を行うにはそもそも無理がある。ずっと一人で生きていたい人でさえ、社会へ出たら他人と関わらずに生きることはできない。学校がその練習をする場でないのだとしたら、なぜあんなにも不自然な環境で育たなければならないのだろう。せめて他人に過度な迷惑をかけてはいけないことさえ学べなかったら、結局はその後自分が苦しむことになる。暴力ではなく対話で解決する方法を学ぶことも、自分の身を守るという観点では必要になる。これはいじめ問題でも同じこと。
ちなみに話は逸れるが、それも全て踏まえた上で「学校になんか行かなくてもいい」という意見はアリだと思う。他人の気持ちへの感度や対話を学べる場は学校だけではないから。学歴さえも、それを得ることで社会的に生きやすくなる(あるいは知的な楽しみを見つけやすくなる)くらいのことで、他で得られないわけではない。学校だとそれらが得やすく、他だと得られにくいだけで。
都立町田の生徒たちはその点、明らかに教師の気持ちを想像する気がない。自分たちが楽しければ他人の人生を壊してもいい、そんな態度が明瞭だからこそ、そんなことが許されるはずもない社会に生きる多くの人たちの気分を悪くする。こんなこともわからないのは年齢を問わず「子供」であり、だからやってはいけないことを教えるためには相手の理解できるレベルに合わせる必要がある。それが「逆らうと怖い」であり、これは「体罰」ではなく「しつけ」に近い。それを教える責任は親にあり、教師にはないのではないか。
だから問題は親にあるし、そのレベルの子供を高校にまで進学させてしまう教育システム自体にも問題がある。そうやって議論していかないと、結局は同じことがまた起きてしまうのだろう。
だから僕は軽井沢風越学園のような取り組みを応援しているし、小学生にはプログラミングを必修化するのもいいけど「基本コミュニケーション学」みたいなものを導入した方がよっぽど生きやすい社会になるのではないか。
そんなことをもやもや思いながら、今日も目の前の仕事に追われている。