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1ヶ月間、日記をつけ続けてみて
少し休んだりもしたけれど、新しい年に入って約1ヶ月間、ほぼ毎日ここで日記みたいなものをつけ続けている。が、そろそろ書く内容もかぶってきたなあというのが昨日の日記を書いてみての感想です。
ずっと書きたかったことからはじめて、そのうち、その日に起きたことがきっかけで思い出したことや、前の日に書いた内容に触発されて書きたくなったことが多くなった。日記というよりも、過去と今の連想ゲームみたいなものなのかもしれない。
それを続けることで「内容がかぶってきた」ということは、数珠つなぎのように襷リレーをしてきた言葉や関心ごとや価値観のある一群が、ある大きさの和を描いて一巡したということ。その真ん中にあるらしきものとは一体何なのか。ぼんやりとその影が掴めてきた。
キーワードは「不特定多数から特定少数へ」「大切にすることと大切にされること」「存在欲求と存在美」「なりたい自分を引き出す」あたりだろうか。そんなような話を昨日友達としていたときに、次のやりとりがあったことをふと思い出す。
「この人に大切にされたい、って人はいるの?」
「いない。」
僕は即答した。その早さを自ら訝しがった。
僕には少なくとも、母や姉妹とは"お互いを大切にし合えている実感"みたいなものはある。何人かの友人とだってある。それらを足しあげても10人はいかないだろうけれど、両手に収まる数いれば十分だとも思う。
それなのに、大切にされる実感みたいなものを求めていた。そのくせに、誰から大切にされたいかを問われると「いない」と答えていた。この矛盾って何なのだろう。
ここまで考えてみてふと思ったのは、大切にされたい相手とは、他人ではないのではないかということでした。僕はたぶん、僕から大切にされたがっている。
僕は今年からいくつか実験を始めようとしていて、それはつまりフィルム写真の自家現像であり、透明水彩の練習であった。先ほどの友人にその話をすると「それむっちゃ自分を大切にしてるじゃん!」と言われた。そうは思ってもみなかったけど、なるほどそうなのかもしれないと妙に腑に落ちた。
自家現像や透明水彩に熱中する自分を想像する。満たされていて、ちょっと誇らしいと思う。自分が少し価値のある人間のように思えて、今よりもずっと、大切にしてあげたい存在に感じられるかもしれない。
そういうことだったんですね。随分と腹落ちした。と同時に、俺こんなことやってるんですよって、不特定多数の人へむやみに言いふらさないように気をつけなければならないなと思う。そこ全然大事じゃないから。まずは自分自身と、自分の大切な人にだけ。
この日記も、ある人と約束して、ある人にだけ読んでもらえればいいと思って始めたものだけど、その人がとある事情でnoteをみることや書くことが難しくなってしまったらしい。
なので手紙でやりとりをすることにしたのだけど、そうなるとこの日記も、これ以上つけ続ける理由はなくなってしまうかも。実際に手紙のやり取りが始まったらまた考えますが、更新も残りわずかかもしれません。
それでいいし、それがいい。きっと。