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卒業アルバムにいない、透明な子どもたち
私は普段、不登校で孤立する親子のサポートをしています。
ある時、関わっているお母さんからこんなお話がありました。
「うちの子、今度の3月で中学を卒業するんですけど、卒業アルバムに載りたくないって言うんです。写真だけじゃなくても名前も載せないでほしいって。私は受け入れました。でもやっぱり複雑な気持ちで…」
お母さんの気持ちを考えてみました。
「卒業式に行かなくてもいいから、せめてアルバムに載るくらいはしてほしいな」
「写真はダメでも名前が載ることくらいは」
「そんなに学校のことが嫌だったんだ、そっか」
「ああ、うちの子が中学生だったことはどこにも残らないんだ」
「ああ、私たち親子のあの日々はなかったことになるのかな」
そんな気持ちでいらっしゃったのではないかと思いました。
お母さんにとっては、不登校だったとしてもそれでも卒業は卒業。
他の子どもたちも当たり前のように卒業アルバムに名前と写真が載るのに、うちの子だけがいないことが受け入れられなかったんだと思います。
なんだかうちの子の存在が社会に認められていないような。
なんだかうちの子が社会の中で透明になってしまうような。
子どもはどんな気持ちだったんだろう。
「卒業アルバムか、別に学校にいたわけじゃないし、なんで撮るんだろう」
「今さら、卒業アルバムに載ったとしても、誰?って思われそうだなあ」
「学校に思い出なんてないし、むしろ嫌なことばかりだから残したくないな」
「卒業アルバムに載ったとしてもアルバム欲しくないし、写真も名前もいらないじゃんね」
いろいろな思いが頭の中を巡った結果、「写真も名前も載せたくない」だったんだろうなあと思います。
子どもの気持ちを考えると、受け入れざるを得ない状況。
でもお母さんの気持ちもとてもわかる。想像するだけで涙が溢れそうになる。
「頑張ったんだけどなあ」
「不登校のうちの子。学校に行っていなくても、ちゃんと”ここ”にいるんだけどな」
寂しいような、切ないような、心にぽっかり穴があいたような、そんな気持ちだったんじゃないかなと思う。
普段はリズムよく言葉が出てくるそのお母さんも、そのときは沈黙の時間がありました。
もう子どもの不登校を受け入れてからしばらく経つ。
子どもが選んだ道、親はそれを応援するだけ。
親として「こうあってほしい」はある。けど、子どもの人生だ、子どもが選ぶことに意味がある。
できるできないではなく、子どもが自分で考えて、自分で決めることが大切。
子どもの選択を信じよう、子どものことを信じよう。
そう思って日々過ごしてきた。
それでも今回のことはまた違った感覚なのだと思う。
だって「うちの子がいない」と言われているようだから。
子どもが不登校になってからずっと周りに伝えてきた。
「うちの子はこういう気持ちなんです」
「学校はそうでも、うちの子は」
「一般的にはそうなのかもしれないけど、うちの子は」
「社会のルールとしてそうでも、うちの子は」
ずっと叫んできた。
「うちの子のことも認めてよ!」って
「うちの子はここにいるよ!」って
こう思ったこともあるかもしれない。
「社会が認めてくれなくても、うちの子はうちの子。私が誰よりも味方でいるんだ。世界で一番の味方でいるんだ」って
子どものために社会とずっと闘ってきた身として、子どものために自分のこだわりや常識を捨ててきた身として
大切な大切な”この子”の存在が認められないことは、心臓を握りつぶされるかのような、苦しくて、しんどくて、つらくて、泣き叫びたいくらいの出来事なんだと思う。
でもこの気持ちもあくまで親の気持ち。
子どものことを思うと、親である私がこの感情に振り回されることは適切ではない。
そう考えて、心の中の”感情の箱”にそっとしまって、鍵を閉めるのだと思う。
これまでも何度もしてきたことだから、もう慣れっこ。
そう考えるお母さんもいるのだと思う。
でも僕は寂しいなあって、ちょっとでも抗いたいなあって思う。
だって嫌だもん。
大切な大切な子どもがいた証明がどこにも残らないのって。
この話をしてくれたお母さんには、うちで卒業式をしましょうと、うちで卒業アルバムをつくりましょうと伝えた。
この子とはしばらくの期間、一緒に過ごした関係性もあるから、おそらく「いいよ」って言ってくれると思う。
顔がうつった写真はダメでも、たぶん顔が映っていない写真は大丈夫だと思う。
一緒にやったボードゲームの写真、ある日の青空の写真、あの時食べたホットケーキの写真、思い出はたくさんある。
他の誰にも渡すことのない、世界にたった一つのあなただけの卒業アルバムをつくる。
「あなたへのプレゼント」として表紙に名前も書かせてほしい。これならいいかな。
あなたがいた証拠をここに残す。
あなたの頑張った日々を証明する人がここにいることを示す。
あなたとあなたを支えてくれた人に「よくがんばったね」と全力で伝えるものを形にする。
あえて今回、この出来事をこうして文章にしたのには目的がある。
子どものためにがんばる保護者のみなさんに気持ちを届けたい思いもある。
そしてもう一つ。
もしもこれを学校関係者、教員のみなさんが読むことがあったら、ぜひ目の前の子のために何かを残すチャレンジをしてみてほしいと思っている。
ある学校では、不登校の子どもたちのために、通常の卒業式と別に個別の卒業式をやってくれるところもある。
体育館でやれなくても、校長室とか職員室とか教室とか、どこでもいい。5分でいいから、その子が参加しやすい形を保護者の方と連絡をとってやってみてほしい。
もちろん本人が望むのなら。
卒業式までしなくてもいい。
手紙1枚でもいい。できればしっかり書いたものだと嬉しいけど、一言でもいいと思う。
「〇〇さん、卒業おめでとう。よくがんばったね。 〇〇より」
あなたを見てるよ。
あなたが頑張っていたのを知ってるよ。
あなたがいること、ちゃんとわかってるよ。
あなたはひとりじゃないよ。
そんなメッセージを届けてほしい。
先生とその子との関係性もあるから、難しいこともあると思う。
保護者の方に手紙を渡して、それをどう処理するかは保護者に任せればいいと思う。
もしそれが子どもの手に届けばラッキー。
もし届かなくても、保護者の方にはその思いは伝わるはず。
子どもにも、お母さんお父さんにも「よくがんばったね」を伝えたい。
学校に行っている子だけでなく、行っていない子にも1人残らず伝えたい。
今年の卒業式は、学校に行かない子にとっても、ほっこりするような、ふーっと息をはいて空を見上げられるような、そんな時間にしたい。
学校としてできないこともたくさんあると思う。先生も忙しくて大変だと思う。
でも、その子を透明な子にするかどうかは、関わる大人一人ひとりの想いと行動で変えられる。
私は私のできる形で、子どもたちや保護者のみなさんに届けたい。
大丈夫、あなたはそこにいる。
あなたのがんばりはちゃんと知っている。