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ちいさな、ちいさな、みじかいお話。

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2018年9月の記事一覧

長編小説『because』 55

長編小説『because』 55

「ねえ、どこに行くの?」
私はようやくそれを彼に聞いた。聞きづらい雰囲気でも、聞いてはいけない事だという認識もなかった。ただ、今になってやっとそれが気になりだしたのだ。日曜日の朝に、彼と一緒に外に出る、それだけで日常からかけ離れていた日常であったし、私がこれからどこに行くのかなんて事にまで頭が回らなかったのかもしれない。

「内緒だよ」

と彼は私を見ずに言った。歩く方向に視線を向けたまま、その視

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長編小説『because』 54

長編小説『because』 54

「なにー?出掛けるの?」
洗面所から少し大きな声で彼に問いかけた。
「そうだよ!」
少し大きな彼の声が耳に届くと、私の頬が少し緩んだ。いくら顔を水で流そうと、その笑みだけはどうしても流す事ができない。
 一通りの身支度を整えた頃、時計は十時を回っていた。その間彼は、ソファに座り雑誌を読みながらコーヒーを啜っていた。彼の周りをバタバタと歩き回る私に対して、彼はそのソファから一度も腰を上げていない。彼

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長編小説『because』 53

長編小説『because』 53

「沙苗さん、出掛けるよ」
日曜日の朝、珍しく彼が私を起こした。いつもであれば、寝ている私なんか放置して、さっさと独りでどこかに出掛けていってしまうのに、彼は私の体を優しく揺すっていた。時計に目を移すと、九時を三十分まわっている。
「えー、なに。日曜日だよ」
「そんな事知ってるよ」
彼が満面の笑顔で私にキスをした。そんな事は珍しかった。日曜日の朝に彼と口づけを交わすのなんて初めてなんじゃないだろうか

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長編小説『because』 52

長編小説『because』 52

商店街を歩く人々の声が段々と聞こえなくなっていく。さっきまであれ程届いていたのに、今ではその会話が随分と小さくなった。耳を塞いでいる訳でもないし、目も開いている。でも、人々の声はゆっくりと遠くなっていき、私の頭の中にぼんやりと彼の友達であるその人の顔が浮かんできた。まだ見えない、でも、見えてきた。

目はこんな……鼻はたしか……口はどうだったか。少しずつ少しずつその人の顔を組み立てていると、人々の

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長編小説『because』 50

長編小説『because』 50

「俺はな、でんぱちって言うんだ」
嗄れた声が耳に刺さった。痛い、と思う程の雑音が混ざった声に私はもう不快感さえ感じないくらい慣れてしまっていた。私が「それより、あなたは誰なんです?」と言った後にでんぱちがそう言ったのだった。
「まあ、今の話であんたらの出会いはなんとなく分かったけどな……」
でんぱちが大きな体を屈めて、覗き込むように私の顔を見た。それよりも驚いたのは今私が昔から記憶を順に追っている

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長編小説『because』 49

長編小説『because』 49

「変な事は何もしてません」
「変な事?じゃあ、人の会社に乗り込んだり、人の家の前で待ち伏せしたり、それは変な事じゃないって言うの?」
「ああ……」
彼は一度俯いてから
「変かもしれません……」と続けた。
「そういうのストーカーって言うのよ」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、なんなんですか?」
「いや、あの……」
彼は俯いたまま、頭を掻いている。
「ただ、あなたが好きで……」
「好きだった

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長編小説『because』 48

長編小説『because』 48

「いないのか……」
彼がいない事に寂しさを感じた事は、もはや言い逃れできない事であって、否定する気もないのだけれど、なぜ、見ず知らずのしかも自分のストーカーである男に私の心を軽くさせられなくてはいけないのか、それは一向に理解する事ができそうになかった。いつもいつも同じ時間を繰り返していると、たまに起きる非日常が、たとえ自分の身に危険が及ぶ事であっても、興奮を生むのかもしれない。
 バッグから鍵を取

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長編小説『because』 47

長編小説『because』 47

 伝票を捲っては、また捲って。数字の羅列がひたすらに私の目に飛び込んできて、それをひたすらに電卓に打ち込んだ。そんな最中もやっぱり、べったりと張り付いている昨日見た彼の顔が頭の中には確かにいて、いくら数字の羅列を頭の中に入れようと、拭う事ができないままでいる。彼が私の頭の中を占拠している事はどう考えても腹立たしい事で、そんな彼の顔が私の目の前に現れる度に、私はいらついているのに、なぜかどうにも剥が

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長編小説『because』 46

長編小説『because』 46

きっと私と同じフロアにいる美崎さんに対しての言葉なのだろうけど、まるで目の前にいる私に何もなくてよかったなんて言っているように感じられる。そんな無駄な優しさを兼ね備えている中村が私はどうしても好きになれない。もちろん彼は私より先輩だからそんな事面と向かって言う事はないけど、人気投票があったとしたら、私はまず中村にはその一票を投じない。
 エレベーターがようやく一階に着き、ポンという音をたててドアを

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長編小説『becase』 45

長編小説『becase』 45

私と同じ経理室にいる美崎さんという女性は中村と同棲しているらしい。これは美崎さんから直接聞いた事だから間違いないだろうけど、会社ではこの二人が同棲している事を公にはしていないという。私としてはどっちでもいい事だし、関係のない話なのだけれど、なぜか、美崎さんはそんな会社で内緒にしているような話を同じ会社にいる私に言ったのだ。その理由は今でもよく分からないけど、中村にしても私に対しては同棲しているとい

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