長編小説『because』 46
きっと私と同じフロアにいる美崎さんに対しての言葉なのだろうけど、まるで目の前にいる私に何もなくてよかったなんて言っているように感じられる。そんな無駄な優しさを兼ね備えている中村が私はどうしても好きになれない。もちろん彼は私より先輩だからそんな事面と向かって言う事はないけど、人気投票があったとしたら、私はまず中村にはその一票を投じない。
エレベーターがようやく一階に着き、ポンという音をたててドアを開いた。すぐにいっぱいになってしまったその中で私のすぐ隣に中村がいて、中村のちょうど胸のあたりに私の顔があった。美崎さんと同じ匂いがする、なんて事を思いながら四階に着いて開いたドアをくぐり抜けた。出掛けに「それじゃ」と中村言ったので、私はその詰め込まれたエレベーターの中で、ほんの少しだけ頭を下げた。
自分のデスクに腰を下ろし、パソコンの電源を入れた。昨日会社を出た時にはなかったはずの伝票の束が積まれていて、これだって毎日の事なのに、それを見る度に私の起き上がり始めていた脳が、また強制的に眠りに入ろうとするのだ。パソコンが起動すれば、すぐにメールのチェックをして、適当に返信を送る。伝票の束を持ち上げて、今日もこれらと格闘するのかと思っていると
「おはよう」
と美咲さんが私の横を通り抜けていった。彼女が通った後になんだか懐かしい香りがするなんて気持ちに陥って、それがさっき嗅いだばかりの中村の匂いだった事に気付いた時、また気持ちは沈みこんでいったりするのだ。
「今日もすごいね」
なんて向かいの席に座っている美崎さんが、パソコン越しに私のデスクに置かれた伝票の束を見て言った。
「ええ、今日もすごいです」
全く意味なんてない言葉を返してみたけど、返した後にあまりにも意味がない事を自分が言ってしまった事に愕然とする。こういう時って一体何を言ったら、自分を満足させる事が出来るのだろう。まあ所詮、そんな事は考えない事が一番得策なのだろうけど。
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