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語り得ない神秘に耳を澄ます:『音を視る 時を聴く 坂本龍一』感想

坂本龍一展で印象的だった作品の鑑賞をいくつか残そうと思う。

坂本龍一+高谷史郎《TIME TIME》
夢の物語をモチーフにしているが、水、風、物音など、生(なま)の質感がありありと伝わってきた。リアリティに溢れている一方で、観念的な宇宙観も帯びている神妙な作品。
ゆっくりと、時間を延ばしていくように語るナレーションが印象深い。

自然のざわめき、音の粒のポリフォニーと楽器の重厚感のあるスモーキーな音とが重奏的。

スクリーンに映し出された漣が薄れていくのに同期して、言葉も消えていく瑞々しい映像のシンクロ。

『夢十夜』の一節「もう死んでいた」のセリフが放たれてからの、長い余韻。
雨風の音の連なりは年月の経過を表しているのか。無声映画の如き映像と共に永い時間が過ぎていく。

読書で『夢十夜』を体験した時は、その文字を追うとすぐに脳裏に場面の情景が描かれる一方で、このように映像と朗読で一文一文をゆっくりと味わうと、頭が情景を浮かべるプロセスが引き伸ばされ、ことばの持つ質量や行間に広がる時間の余韻を自ずと噛み締めることができた。


清流のような調べの上に、緊張感伴った層を織りなす笙(しょう)の音色
神妙な響きだった。

坂本龍一+高谷史郎《water state 1》
水と饗応する音
天井の装置によって目前の水盤に人工の雨が滴る。
長く雨が降らない時間が続き、少しずつ雨粒が落ち、やがて甚雨のようにその密度は上がっていく。

一つ一つの雨粒と空間で鳴る音の粒が響応し、雨の連弾に共鳴する音色もポリフォニックに乱れ鳴る。勢いに緩急のある降雨と磁波のように揺らぐ水面と同時的にダイナミックな音色を味わうのは、五感を揺さぶられるような迫力ある体験だった。

《PHOSEPHENES》
坂本のアルバム『12』の「20210310」にカールステン・ニコライの映像美が合わさる。
真っ黒の背景に、洗練された燻煙のような、気体で出来たヴェールのような、半ば抽象的で、神妙な芳香が匂う映像。

掴めなくて、靄のようで、神秘的な無色のオーロラのよう。

それはある種の透徹とした宇宙に対峙しているようで、視覚的な恍惚へ誘われる。
映像を鑑賞する中で、アトモスフェリックな音楽が満ち引きのように前景化しては後景化していくような、ニコライによる視覚と坂本による聴覚が半ば同期し、半ばうつろい続ける時間に浸っていた。

ヴェールのような動きを見ていると、その色味もあってか、
一昨年の新美で観た大巻伸嗣(おおまき しんじ)氏の「Liminal Air」シリーズ「Liminal Air Time—Space 真空のゆらぎ」にも通ずるを彷彿とさせ、大気の流れそのものに迫るような動きが通底しているようにも感じた。

Liminal Air

「Liminal Air」が、実体として存在する、実在的な接続性のある神秘であるのに対し、本作は映像作品ということもあって、不可触の観念的な神秘が閃き続けるような美しさを放っていると感じた。

Liminal Air


async-immersion tokyo
具象的な様相を映したイメージが、リヒターの絵画のような線条となって形態を変容させる。
我々の見ている〝現象〟を無化するようなプロセスは、我々の知覚世界や記憶の有限性を前景化させ、私たちを取り巻くありとあらゆる情報の終末が示されているような無常感も感じられた。

例えばライブラリや島々の浮かぶ海の風景の数々が、順々に、リアリティを帯びて立ち現れたかと思えば、また抽象的な線条へと還っていく。
「時間性」「永続性」に対峙するかのような往還的な映像は、アルバム『async』の「外界の手触りを感じるような現実性」と「精神的な重厚感」と照応するかに味わうことができる。


さいごに

総じて、直接的に何かを語る訳ではないハイコンテクストな作品が多くを占めていていて、その意味では「語らない展覧会」だったとも言えると思う。
(坂本龍一は音楽家であり、コンテクストを下げる言語で作品を作っている訳ではないので当然かもしれないが。)
だからこそ今回の展覧会は、果てしなく広がる非言語の余白に耳を澄ませ、非言語を前に、非言語のまま味わうことができる、真に芸術的なものだったと思う。

ICCで開催されたevalaでも感じたことだが、アンビエントミュージック周辺の音楽芸術を実地で味わうということは耳だけではなく、より拡張された身体性を伴う体験であると今回も感じた。

研ぎ澄まされた美の反映を直接に身体で受け取ることができる、素晴らしい展覧会だった。

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