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【創作】ぬくもり
先ほど物干し竿に掛けた洗い立てのステテコを見上げてから、それよりももっと高い位置にある同じ色の雲を仰いだ。着実に冬の気配を伝える風が、もこもこと厚みのあるそれをゆるやかに流していく。昼前の空は薄青く、どこか寂しそうに正人(まさと)には見えた。
襟足で一つに結った癖のある長髪が揺れる。草履を履いた素足が冷たい風に撫でられ、肩が震えた。
手入れのされていない庭の隅で柿の木がざわざわと葉を鳴らす。そこかしこに生えた雑草も山々も、今は紅葉して華やかだが、それが過ぎれば全てが散り落ちると思うとやはりどこか空しい気持ちになる。秋とは多分そういう季節なのだ。明るく開放的な夏が終わり、神に見放されたような厳しい冬が来る。その過程を傍観するするだけの季節。
正人は湿った指先に温かい息を吐き、拝むように両手を擦り合わせた。
「正人君」
ふいに背後から声を掛けられ、正人は反射的に振り返った。声の主はわかっていたが、自分の名を呼ばれることにはいまだ慣れない。
正人の主人――月岡(つきおか)は、ガラス戸を開けた縁側に立ち、彼の新鮮でつややかな双眸ををじっと見つめて言葉を続けた。
「休憩しないか」
紺地に縞模様の長着を着ただけの月岡が、自分を抱くようにきつく腕を組む。元々寒がりのくせに羽織を引っかけることもしない無精な性格が悪いのだが、この寒風は体に堪えるだろう。正人はいくつか年上の――八つ上をいくつかと表現していいのかはわからないが――月岡を気遣って、以前の持ち主の別邸だったという古めかしい日本家屋に足を向けた。
居間の座卓の傍には織部焼の火鉢が置かれ、すでに部屋全体を温めていた。縁側から座卓の前に移動した月岡が、腰を下ろしながら白い喉ぼとけを上下させたのを見て、正人は台所へ向かう。
かまどに乗せたままの鍋に火をつけ、それが沸くまでの間に平皿に干し芋を飾り付けた。味見はしたが主人の口に合うかはわからない。見様見真似で作ったはいいが、そもそも正人自身があまり食べたことがないので出来具合に自信はなかった。
しかし出会ってひと月ほどの間で、月岡が正人の用意した食事に文句を言ったことは一つもなかったので、何となく彼なら多少不味くても残さず腹に入れるのではないかと思った。
ふつふつと鍋の中身が音を立てる。
熱いままを湯呑に移し、盆の上に皿と湯呑を乗せて居間に戻る。襖を開けると、月岡はガラスのはめられたの本棚の前に積み重ねてあった書籍のうちの一冊に、視線を落としていた。下を向いていると濃く引かれた隈がますます目立つ。正人が近づくとのろのろと顔を上げ、「甘酒かな」と囁くように尋ねた。
「昨晩の残りですが」
正人が月岡の傍に膝をつく。座卓の上に持ってきたものを置くと、月岡がその所作を目線で追った後に、正人の淡褐色の瞳を見つめた。
「君のは?」
「主人と下男は一緒に食べないものだと聞いていますが」
「私は気にしないが」
「……と言われましても」
正人が困り顔で首を傾げると、月岡が骨ばった指で顎を擦り天井の隅を見上げた。
「これは主人の命令だと言えばいいのか」
棒を辿るような、まるで強制力の無い声で月岡は言った。
「そうだな。そういうことにしよう」
一人で納得した様子の月岡に、「はあ」と正人は従うことにした。「どれ、今度は私が用意しに行こう」と立ち上がろうとする彼を抑えて、正人は再び台所へ足を踏み入れる。大きなため息を吐きそうになり、両手で顔を覆った。それでも若葉色の着物の胸は大きく上下し、震えたような息が漏れ出る。主人のことがよくわからない。正人は当惑する頭を作業台に落として、今度は深く息を吸った。
「うまいな」
月岡が頬を動かしながら言う。真顔は変わらないが、右手は頻繁に干し芋を口に運ぶ。
「それは、よかったです」
「外は寒かっただろう」
「いえ、慣れてますから」
「慣れてても寒いことに変わりはない」
月岡が促すので、正人は火鉢を挟んで彼の向かい側に座った。その確かなぬくもりに水仕事で冷えた体の力が抜ける。両手で湯呑みを持ち上げると酒粕の甘い香りが鼻腔をくすぐった。唇の先を湯呑の縁にくっつける。
「美味しい……」
正人がゆっくりと胃に落ちる優しくまろやかな味に息をつくと、月岡が鼻を鳴らした。馬鹿にしていると誤解されそうだが、この人なりに微笑んだのだと正人にはわかった。胸の中がくすぐったい。そんな気持ちを誤魔化すように甘酒を呷った。
「あとは昼寝でもしているといい」
腹を満たした月岡が立ち上がる。
正人も彼を追おうとしたが、何を言ったらいいのかわからず腰を浮かせたままに止まった。月岡が再び鼻を鳴らす。
「私は部屋に籠るから、何かあったら声を掛けてくれ。ここなら温かいし、好きに使ってくれて構わない。では」
あっさりと正人に背を向け行ってしまう月岡を、正人はただ茫然と見送った。いつもと変わらぬ態度といえばそうなのだが、やはり尽くすべき主人が向ける自分への不相応な気遣いには慣れない。一つ屋根の下にいてもいないもののように扱われ、つばを飲み込んで飢えを凌いでいた、そんな奉公先もあったのに。
正人は主人が去ったのを見計らって、その場にごろんと横になった。上から深緑色の釉薬を垂らした、上品な色合いの火鉢の丸みが目の前にある。はだけた足が寒くて猫のように体を丸めた。温かくて安心する。
ガラス戸から注がれている柔らかい陽光に気づき、正人は飛び起きた。真上にあったはずの陽が幾分低い位置にある。寝過ごした。座卓の上も片づけないままで、まるで家人のように安らいでしまっていた。
急いで食器を集めようとした正人が上体を伸ばすと、胸の上からはらりと何かが落ちた。
掴んで広げると、黒地の綿入れ半纏が体を覆っていた。これが月岡のものであることは明白で、ということは彼は最低でも一度ここに来ていて、しかも眠りこけている正人の姿を目に入れているのだ。声を掛けてくれたらもっと早く起きたのに。
正人は座卓に額を打ち付け、低く長く唸った。早鐘を打つ心臓が締め付けられて苦しい。月岡の行動が理解できない。
気力の無さそうな三白眼も、覇気の感じられない低い声も、にこりともしない愛想の悪さも、人を大事にするどころが拒絶しそうな風貌なのに、少なくとも正人に対する言動には優しさと思いやりが込められている。
正人は戸惑っていた。拾ってもらったことに感謝を感じながらも、こんな贅沢をしていいのかという罪悪感に苛まれる。きっと誰も許してくれない。神様も、仏様も、村の人たちも。月岡だけが、何故か人間として扱ってくれるが、もともと自分にはその恩恵を受ける権利なんてない。それを忘れてはいけない。
深い意味は無く、半纏に鼻を押し付けるとほこりっぽいにおいがした。本格的な冬が来るまでに一度洗っておこう。家事の予定を考えることで暗い思考を打ち切り、正人は漸く盆に湯呑を移し始めた。
隣の書斎からは物音一つしない。
しかし庭では洗濯物が揺れている。人の気配があることに安堵の息を吐き、正人は温かい居間を後にした。