見出し画像

不純な動機

 私は文章を書いている自分が好きである。
 文章を書くこと自体は楽しいと苦痛が半々くらいなので、好きか嫌いかと問われたら微妙な反応しかできないが、悩みながらキーボードを叩いている自分の姿は好きなのだ。
 え、だって創作してる人ってかっこよくない?うんうん唸って作品を生み出す人って素敵じゃない?髪の毛ぐしゃぐしゃ搔きながら書いた(描いた)ものぽーいってする人ってプロフェッショナルな感じしない?
 外見的な部分の評価である。憧れである。
 しかし私の原動力ってそこなのである。
 キーボードがカタカタ鳴らなかったら、私はきっと小説など書いていなかっただろう。

 何か真剣な顔でノートに構想を書き、パソコンの画面を睨みながらプロットと本文を打ちこむ。たまに首を捻ったり、俯いたり、遠くを見たりする。一端の作家である。そう見える筈。誰も見ていないのにそんな素振りをする。自己満足なのだ。作家っぽさ、というのは私にとってとても大事だ。

 実際に執筆をしている作家さんを見たことは無いので、どのような環境でどのような雰囲気で、姿で書いているのかはわからない。想像するだけである。だから誰もが想像するであろう作家像を参考にしている。基本的にだらしの無い部屋着で執筆しているが、そのうち着物を執筆着にしようと画策している。
 形から入るタイプなのである。工夫してモチベーションを上げることは大事だ。人によっては音楽を聴いたり本を読んだりするのだろう。
 本当は着物を普段着にしたいけど、動き難いことは間違いないので執筆着にとどめる。昔ながらの作家のイメージ。「私は作家だ!」と妄想し、思い込むための手段。馬鹿だと思う。

 もともとコスプレを嗜んでいたことにも起因するのだと思う。キャラになりきるというのは非日常的なことだ。つまらない現実と自分を分離させる一つの手段だ。
 私にとって創作とは日常生活において必ずしも必要なものでは無い。別に無きゃ無いで他の暇潰しをするのだろうし、飯を食えないわけでも無い。でも現実の中に住んでいるだけでは夢は見れない。夢を見たい。「物語を創る人」のコスプレをすることで。
 なんだかんだ言いつつ現実的でしょう?だってコスプレがしたいだけで、物語を創ることは二の次、というか金魚の糞を生成しているだけなのだし、高望みはしていない。そりゃあ書くからには「上手な小説を書く人」になりたいし努力はするけれど、そんな自分に酔っているだけで、その延長線上に公募があるだけで、書くこと自体にこだわりは無いのだ。
 私は「作家」になりたい。
 「作家の姿」になりたい。

 書く理由なんて人それぞれなのだろう。
 物語で人を救いたいとか笑わせたいとか、馬鹿にしてきた他人を見返したいとか、稼ぎたいとか。そういうのはあんまりピンとこないけど、きっと私の理由も大勢に理解されることでは無いだろう。
 なんでそんなに苦しんで、切羽詰まって書くのだろう?と思う。
 現在、出す予定の公募の〆切まで一週間きった状況である。
 焦るだろう、ふつうは。
 しかし、その状況を楽しんでいる自分がいる。
 〆切に追われるなんて、なんて作家っぽいんだろう。「あ~間に合わないよ~!」という台詞には浪漫が詰まっている。間に合うとか間に合わないとかはこの際どうでもいい。その台詞を言うことが重要なのである。「夢」なのである。正直公募の結果を見るのも苦痛ではない。そのときもまた、公募勢っぽいなと思いながら(同時にギャンブラーの血を騒がせながら)、自分の名前を探すのである。
 格好だけつけたいのだ。
 「うふふ、今作家っぽいな~」が私を喜ばせる。
 不純だ。甚だ不純である。
 創作に対して真摯に取り組んでいる人たちに蹴られても仕方が無い。
 私の「コスプレ」を助けてくれるのが小説であり創作である。……金魚の糞とか言っちゃいけないな。瘤かな。痛みや苦しみは確かにあるから。
 令和の江戸川乱歩になりたいのも太宰治になりたいのもそういうわけである。原稿を手書きしているわけでも巧みなミステリーや私小説が書けるわけでもないけれど、作家じゃん?作家っぽいじゃん?目指しちゃうよな。着物着たくなっちゃうよな。万年筆とか無駄に買いたくなるじゃん。

 というわけで、今もうふふとキーボードを叩いております。
 は~!〆切〆切~~~~!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?