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人はどこまで自由になれるのか…はて?



友達は私のことを
「あなたみたいに優しい人見たことある?」
と、真剣に言う。
私みたいに優しい…まず、その状態が分からないし、私は優しい人なんかじゃない。

三浦綾子の小説『氷点』で、主人公が、
「私の心にも氷点はあったのです。」
と言います。
氷点の主人公でさえ「自分の心に氷点がある」と言うくらいだから、勿論私の心の氷点に気付いていないはずがない。

「氷点」を数えあげたらキリがない。
数えたくはないけれど。

高校生だった時…。
家族で蕎麦屋に入った。
その蕎麦屋さんの店員さんの顔には、全体に火傷の跡と思われるケロイドが見られた。
ざわざわ騒いでいた女性組みが一斉に無口になった。それに気付いた父が、
「ほら騒いでないで、さっさと何食べるか決めろ。」
と言った。
その空気を察した店員さんは、肩を小さくした。
その時、店員さんのいつも世間の反応にカタツムリのように殻に籠るような雰囲気を感じて、より、得体の知れない気持ち悪さを感じた。
父が、そう促しても、みんなメニューから顔を上げず押し黙ったままだった。

弟だけが違った。
「僕は温かいやつがいいなぁ。」
弟も、空気を察して柔らかいけど陽気な声で答えた。
弟は不思議な子で、誰もが嫌な気分にならない。弟こそ、本当に優しい子なのだ。
だから、
弟が亡くなった時は涙が止まらなかった。涙はいくらでも出ると初めて知った。
でも、弟が亡くなり、自分は弟が亡くなった悲しみで泣いていることに気付いた。
決して、弟のために泣いているのではない。自分の感情処理だ。
そう気付いて、弟を必ず天国に連れて行ってくれるよう祈った。
そうすると不思議に涙は止まり、不思議なことに心も落ち着き出した。
弟が天国に行くことより、自分の感情処理をすることに精一杯の私の愚かさを弟は教えてくれたのだろう。

それから、
それぞれの蕎麦が運ばれたが、完食したのは父と弟で、母も妹も私も殆どを残した。
車に戻った時、
「車椅子に気遣ってあんなに親切にしてくれたのに、お前らは一体なんなんだ。」
と、父が静かに怒りを表した。
「え?お腹がいっぱいだっただけ。」
と、母が素知らぬ顔でいらない言い訳をした。
母らしい言い訳だった。
問題には目を向けずその場をやり過ごせればそれでいい母。「だから何?」とさえ思っているだろう。
「お前らが見た目で人をはんだんする人間なのはがっかりだ。」
そう言って父は黙り、車を出した。
弟は悲しい顔をしていた。でも、弟が本当はどんなことを考えていたのかは分からない。
車椅子なのに親切にしてもらったのは弟なのだ。もしかしたら、何かの引け目を感じていたのかも知れない。
弟も店員さんも、引け目なんて感じなくていいと思うのだけれど、それは私が何かしらの引け目を感じず生きられる立場だからだろう。
それでも、私は見た目より、その引け目に気持ち悪さを感じた気がしたからだ。答えのない難問を見せつけられたような…。
半世紀生きた今だからだけれど、どんなだろうと堂々といれば、相手も受け入れてくれる様に思うのだ。だけど、そんなに強く生きれるかと言えば、一人では無理で、周囲の家族や友達の肯定がなければ難しい。肯定してくれる人が多い程、堂々と生きていけるのに…。
恐らく店員さんは、肯定してくれる人が少なかったんじゃないかな?だから、誰かに優しくして、優しさ返しを期待していた気がする。優しさ返しなど、期待してはいけない。それなら、他人に優しくなどしてはいけない。優しさ返しを期待すると、他人はそれを見抜いて、利用しようとする。負の循環が生まれて、永遠に欲しいモノは手に入らない。

どうかお願い。
それを受け入れて、堂々と生きて…。

高校生だった私。
私は優しい人ではなかった。
でも凄い事で、半世紀生きるとそんな自分を許し始めている。
私は優しい人ではない。

その話を友達にした時、友達はハンセン療養所で働いていた時の話をした。
「病気で亡くなったりはしないけど、見た目がね。でもね、ずっと一緒にいると可愛く思えるんだよ。」
友達はそう笑った。
ハンセン病の人と、きっとこんな風に笑い合って過ごしたのが分かった。友達はそう言う人なのだ。
ありのままを受け入れて肯定し、笑顔で進んで行ける。
私に
「あなたみたいに優しい人を見たことある?」
と、言った人だ。
私より友達の方が優しいと思うんだけど。



星の王子さまで、
「杭なんか必要ないよ。どこまでも行ける訳じゃない。」
って、セリフがある。
それはヤギの話だったけど、人だって、自由にどこまでも行けそうで、結局、どう足掻いてもただぐるぐるしただけで、遠くまで行ったつもりでもたかが知れている。
物理的な環境だけじゃない、見えない膜が人を包んでいて、その膜からは抜け出せない気がする。どんなに変わろうとしても、その膜の中で足掻いているだけなんじゃないだろうか。
だけどね。
私が出来ない優しさを友達が補ってくれている。
一人で遠くに行けなくても、誰かがその意思を継いで、行きたい場所まで運んでくれるんじゃないだろうか。
そう思うと、膜からは出られなくても、こうなりたいと言う意思こそ大切なんだろう。
人はすぐに自分という枠で括りたがる。だけど辿り着くのに自分という枠はとても邪魔だ。自分と言う枠こそ、見えない膜であるのかもしれない。
パラレルワールドの多次元宇宙を見るようだ。シャワーカーテンに張り付いた泡。
シャワーカーテンから抜け出せるのは思いだと言う。
王子さまが、あの星にいると思うだけで星を見るのが楽しくなるように、自分と言う枠を外して、誰かと繋がると、どこまでも行けるのだろう。








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