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絵を描くことと、言葉を紡ぐことの違いって? part 2


モヤっと終わってしまったので、再び、再構築です。

これは、凄く個人的なことで、
誰にも当てはまらないかもしれません。
もしかしたら、
みんなそうかもしれません。

水面に風が吹いても、
雫が落ちても、
バケツをひっくり返したような雨が降っても、
水底をさらうような水の変化が起こっても、
言葉は紡ぎ出されます。

しかも、
風さえ吹かず、水面が一切揺れな過ぎても、
言葉は紡ぎ出されます。

言葉が紡ぎ出される時って、
ある種のストレスを感じた時なのかもしれません。

水面の外からの刺激だけでなく、
水面の中に抱えたワダカマリがあれば、
それもまた、内なる力で水面を揺らします。

こんな時も勿論、
言葉は紡ぎ出されます。

水面が揺れようと、揺れまいと、
外からの力であろうと、内からの力であろうと、
人は揺れる事ができるのでしょう。

恐らく、それがストレスの正体?


そう知ってしまうと、
水面の変化がとても面白くて、
「へ〜、こんな変化でも水面は揺れるんだ。」
と、変化を楽しみ、出来た傷を眺めて、
言葉を紡ぎ出します。

水底をさらうような、激しい流れでも、
流される感覚を、
その感覚は何と繋がっているか、
流れを止めるにはどうしたら良いか、
止めずに何処まで行くのか、
そこに含有されるものは何か、
匂いはあるか、
皮膚感覚は?

渦に巻かれて、本当は苦しいくせに、
それを捕まえようと息を堪えているうちに、
もう水面は静けさを取り戻しています。

傷だらけになっていても、
「このくらい、なめれば、大丈夫。」
と、味わった感覚で言葉を紡ぎ出すのに夢中です。


だから、私の心はいつもお喋りで、
言葉を紡ぎ出さずにはいられないのです。


それと比べて、絵はどうかと言うと。

揺れる水のもっと下で、
一緒に揺れることはありません。
水が揺れるのや、凪の状態をじっと見ています。

感じとしては、
揺れ動く水の中に、
殆ど揺れることのない水の塊がある感じです。

水の塊は、
私が、水の揺れを感じているのさえ見ています。

言葉を発する事はありません。

だから突然、絵が浮かぶのです。

私は、地図を進む様に、
浮かんだ絵を描いていきます。

他の人の様に絵が途中で変わったり、
進まなくなったりもしません。
いつも浮かんだ絵の通りです。

ただ、浮かんだ絵が思い通りかける技術がないと、
どう描いたら良いか悩む事は毎回の様にあります。


実は、水の塊がストライキを起こした時は最悪です。
言葉を持たないくせに、
発するものは強いのです。
なだめ方も分かりません。
…でも、
本当に何もせず、3日くらい寝るのが、
一番いいみたいです。

水の塊を見ていると、
人はとても強く、
とても弱いのだな…と、思います。


こう考えていくと、
紡いだ言葉も、
絵も、
脳の(心の?)  排泄物の様に思えます。

排泄物を賛美しあっていると思うと、滑稽ですね。

そんな考え方は、意地悪かな?
だって、紡いだ言葉や、絵で、
開放されることって本当にあるから…。


こんな風に、
言葉や絵が作り出されます。

これを、誰かが評価するって、意味があるでしょうか?
評価なんて、とても無意味に思います。
そこにあるのは、私が作り出したものに、
誰かの水面が揺れたかどうか…。
もし揺れなくても、
私の波長に対し、
揺れる事ができる受容体を持っているかどうかの
違いの様に思います。
それは生きてきた経緯の違いじゃないかな?

だから、評価より、
私は自分に素直になりたい。

私が知り得た世界は、
私以外には知り得ないのだから。

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