意思で身体が動かない時は、欲求を満たしてあげる
どーしてだろう。
息子の夏休みが終わると、しばらく何もしたくなくて、ぐーたらと欲求のままに過ごしてしまう。
これじゃあ、いかん!!
頭では、やるべき事をやらなければ❗️と思っているのに、どうしても身体が動かない。
夏休みの1ヶ月半抑えられていた欲求を解き放してしるのだろうか?はたまた、夏休み疲れだろうか?
「自我消耗」していたことに、息子の幼稚園が始まって気がついた。
息子と一緒にいる時には、別に何も頑張っていないと思っていたのに、好きなことが出来ない我慢はしていたのだろう。
だから、一人になるとここぞとばかりに好きなことをする。
未来のために自分を動かす事が出来る時、きっと今の欲求が満たされているのだろう。
欲求って最強だ。
誰も敵わない。
意思も理性もその力には及ばない。
欲求を封じ込める為に必要なのは満足。
欲求は我慢しないで満たしてあげる。
結局どんなに頑張っても、生理的欲求には敵わない。
やりたくないことをやる力にするために、今の欲求に素直に従う。
生きてる限り我慢の連続。
今の欲求を満たすことは、未来への活力になる。
仕事終わりに、🍺を飲むことも、休みの日に買い物をするのも、家でぐーたらすることも、未来への活力なんだ。
未来って今の欲求の塊が形になっている気がする。
頑張って叶えた夢は続かない。
夢は叶えたからって終わりにはならない。
頑張らないで叶えた夢は、ずーと続けられる。
生きることも同じだろう。
頑張りすぎると息切れして、鬱になったり死にたいと思う。
生きることも、仕事も頑張らないで出来ることの方が続けられる。
夏の暑さに耐えていた我慢が、涼しい秋になって食欲やら睡眠やらへと姿を変えて現れる。
どうやら夏の間は気がつかなかった疲れが、秋の涼さを感じることで押し寄せてしまった様だ。
意思や理性の命令で行動が出来なくなった時、日々押さえつけられている欲求がストレスとなって身体を支配している。
脳の仕組みを知って、そんな風に考えられる様になった。
決して怠惰な訳ではない。
脳の仕組みがそうであるだけ。
どんな人でも、理性の奥には必ず欲求が隠されている。
頑張れる時に頑張る、はっぱはそれで良いのだ。