時間はなぜ戻らないのか、という問いについての根拠のない仮説
「時間はどうして巻き戻せないのか?」と子どもに聞かれたことがある。考えてみれば確かに不思議な話で、どうせなら可逆的であっても良さそうな気もする。
こういうとき、わりとすぐに調べてしまうのだけど、この時はふと調べる前に少し自分でも考えてみようと思った。なぜかは分からない。5月だからかな。
さて、何かが一方向に進む時、それはその物体に対して「なんらかの力」が働いている。例えばボールが地面に向かって落ちるとき、地球の重力によって地面に引っ張られる力が働くことでボールは落ちる。
そして、質量があるものはその質量に比例して重力が大きくなる、ということを前提に、現在を基点としてその両脇に過去と未来が存在する場合、過去に比べて未来の方が常に重力が大きい、と仮定する。
つまり、もしも時間というものが粒子だとしたら、ボールが地面に向かって落ちるのと同じように、もしかしたら未来に向かって絶えず重力が働いているのかもしれない。
では、なぜ未来の方が質量が大きいのか。
それはもしかしたら、未来には過去にはない「可能性」という名の質量があることで、過去に比べて質量・重力が大きくなり、この構造により時間は絶えず未来方向に流れるのではないだろうか。
もしもそうなら、現在地からみてすでに確定した過去は、未来に比べて常に質量が軽いということになる。そう考えると、「過去のことばかり考えても仕方ないよ」というありふれたあのフレーズはある意味的を得ていたのかもしれない、とも思えてくる。
つまり、ものごとを考えるときの割合として、過去のことだけではなく未来のことを考える時間を多くした方が、在り方として「自然」なのかもしれない。
肯定しきれない過去のことばかり考えるとつらくなってくるのは、自然の流れに対して逆行しているからなのかもしれない。流れに逆らうことで生じる摩擦のようなものによって、心がヒリヒリするのかもしれない。
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「時間が巻き戻らないのはなぜか」という彼の問いに対して、私なりの答えを考えてみたが、これが正しいかは分からない。けれど、そもそもすぐに答えを出さなくてもいいと思っているし、それこそ「時間」をかけて一緒に考えていけたらいい。なんなら、途中で答えが変わっても構わない。それがそのときの最善なら、その分考える力が育っているなら、それでいい。
…とはいえ、私としては問いを抱えたままの状態でいるのもどうにも気になる。
今鍋にかけている小豆が煮えたら、この問いに一番近い答えを調べてみようと思う。
ありがとうございます!