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離婚なんて爆笑問題だと思った話

そういえば秋だったんだよなあ、と思う。あの日、私が離婚届を出したのは。

当時私は渋谷区に住民票があったので、渋谷区役所にいた。離婚届を提出するために。

その年の冬の終わりに不穏な出来事があってから半年後、法律の力と何人かの具体的な手助けを経て、あの短かった夫婦生活が終わり、今、私の手によって離婚が成立しようとしていた。

「やっと終わるんだ」という安堵感と、「これで本当に終わるんだなあ」という感慨深さ、寂寥感が入り混じった複雑でナーバスな心境で、私は1人渋谷区役所にいた。

そうだ、あの時は確か区役所は移転中で、仮庁舎だったような気がする。建物や、そこに配置されたモノを含む空間全体から染み出すいかにも「すみませんね、ここは”仮”なんです」というようなそこはかとない厚かましさと軽いチープさが、私の身の置き場のない落ち着かなさを助長させていた。

それはもちろん、愉快な気持ちではなかった。幼子を抱え、これから本当に一人でやっていけるのだろうか、いややっていかねばならないのよなという覚悟と、やっぱり少しの恐怖と、街の喧騒とが交差して、あの時の私はきっと身も心もこわばっていたように思う。

爽やかな秋の陽が差し込む渋谷区役所の待合スペースで、そんな気持ちを抱えて順番を待つ私の目に入ったのは、小柄な男性と綺麗な女性の後ろ姿だった。そう、彼らは、爆笑問題の田中夫妻だった。

彼らもまた私と同じように、大小関わらずなんらかの人生の節目で区役所を訪れていたのだろう。夫婦が二人揃って区役所を訪れるなんて、そんな場面は人生でそう頻繁には訪れない。

しかし彼らのそれはおそらく私のようにシリアスなものではなくて、あくまでも穏やかなものだった。まるで人目を気にしていないかのように、のんびりとリラックスしていた。彼らの周りには、小春日和のような陽だまりが浮かんでいるようにさえ見えた。

その時、私のなかで何かが繋がった。


「そうか。離婚なんて、爆笑問題なんだ。」


そう思った途端、それまで私を覆っていた息の詰まるような不安と緊張感を隠すような強がりが、少しずつ緩んでいくのを感じた。

そうだよね。この離婚で人生が終わるわけではないんだよね。今私はこんな状況で、こんな風に感じているけれど、もっと大きな視点でみたら、こんなの爆笑問題なのかもしれない。

今はそう思えなくても、いつか終わる私の「人生」のなかで、この経験をこれから爆笑問題にしていくんだ。それでいいのかもしれない。

そう思ったら、何か大きいものに「大丈夫」とそっと背中を押されたような気がした。
その思い込みは、次第に「この選択は間違っていない、ということなのかもしれない」という確固とした思いに変わっていった。

それからわりとあっけなく書類が受理され、私は区役所を出て駅へと一歩を踏み出した。あの日の渋谷はよく晴れていたことを、今でもよく覚えている。



あれから気づけば数年が経ち、息子は優しく可愛いまま大きくなった。私は、かつてはあきらめていた夢を1つ叶え、揺らぎながらもなんとか日常を送っている。

そして今、あらためて「爆笑問題」ってどういう意味なんだろうと思っている。
単純に「爆笑」で終わらせてはいないんだよな。ちゃんとそれが「問題」であることもわきまえている。

けれど、それを「問題だよね」で終わらせずに「爆笑」に昇華していく、という
生きていく上での気概を込めているのかもしれない。一見悲劇に思えるようなことでも、それを含めて人生は喜劇なのかもしれない。そうできるだけのポテンシャルは、案外人間に備わっているのかもしれない。



彼らはかつてそんなことは微塵も考えずにコンビ名をつけただろうし、そんなことはこれっぽっちも知らないまま田中夫妻はあの時あの場にいたのだと思うけれど、あの時、ただあの場にいてくれただけで、その存在だけで1人の人間の人生を救ったということについて、私はただ心から感謝している。

そして、ただ田中さんがその場にいたという1つの事実からこんな風にメッセージを見出し、「生きて」いくことをあきらめなかったあの時の私にも、ありがとうを言いたいと思う。



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藤井夕映
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