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『訂正する力』感想文

東浩紀『訂正する力』朝日新書(聞き手・構成:辻田真佐憲)
自 己 史 上 最 速 感想文!(※当社比)

※ただの個人的な感想文です。自分のため(+この本に関わった人たちに届くといいな、という小狡い期待・・・)に書きましたm(__)m 
読んでいない人に買ってもらうためにという意図では書いておりませんので、読んでいないと全然ワケわからんかもしれませんが、すいません! 

まずは私が気になった箇所を章ごとに書いていきます。
その後、この本全体の感想を記します。
誤読多々あると思います・・・そこもすみません。私はこう読みましたという本当にただの感想です。ぜひお読みください!

●心が動いた箇所

▼第1章 空気を脱構築(内側からずらす)

マスク外せない問題=空気・同調圧力問題=批判が怖すぎて「謝れない病」の人多すぎ問題。

この問題に鮮やかに回答が与えられておる・・・。

マスクについては「本当は存在しない視線」をビシビシ「感じて」いました。
ビビリで世間を内面化している私は、政府が正式に”マスク外して問題なし”宣言をした後に本格的に外しました。そうやって初めてマスクを外して外出した時・・・誰も私のことなんか見ていなかった。
でも、コロナ禍では、「マスクしますよね?」という視線があった。空気があった。

空気を気にするなという人もいる。でもどうしても、みんながしていないことはできない。エスカレーターも右側に立つし(関西では左側を歩く)、マスクは外せない。村八分が恐ろしい。「先に共同体のルールを破ったのはお前」という罪は消えない。

その呪いを解くカギは「脱構築」。つまりゲームチェンジ。内側に入ってちょっとずつ、ずらす。なるほど。

じゃあマスクの件は、どうずらせば良かったのかな。

私自身はフツーに訂正しました。
つまり「私はコロナがどういう病気なのか情報が少なかった時はとにかく怖くて、マスクが大事と政府も言っていたので従った。しかし知見が蓄積され、現在の状況下では、マスクで予防することよりも日常生活で大事なことがあることがわかった、だから私は外します」
具体的には暑かったし、邪魔だったし、語学学習で口元が見えないって致命的だし、私が外さないと学生も外さないだろうし、ってかもういいでしょうと。そして外さない人の意思も尊重しましょうと。これでええやん。
それは別に転向でもなんでもない。訂正である。

(私はコロナ禍が本当に辛かったしそれで人生が大きく動いたのでコロナのことばかり書いていますが、実際には本の中でこんなにコロナの話はされていません・・・。)

あと、脱構築ってそういう意味の言葉だったんだとわかった。今更。ジャックよお前は難しい。

▼第2章 クワス算の引用

ああ。何度聞いたことだろう。そろそろ人に言いたくなる。「クワス算って知ってる?」

▼第2章 アイデンティティは第三者が発見する。そして発見された方は「じつは〇〇だった!」と訂正する。それでOK

唐突ですが、「クールジャパン」の何が違和感だったのかやっとわかった。それ自分で言っちゃダメなやつ・・・。海外の人たちが「クール!」って思ってくれて、それで私たち日本人も「え、クール? ありがとう。そうかもね。クール!」という流れなのだ。
自分のことって自分じゃわからない、自分探しはタマネギを向いているようなもの、だから他者を鏡にしてその反射を集めて自分を知れ、とかってよく言うもんね~(雑なまとめで東さんの本を強引に曲解・・・)。

▼第2章 訂正しまくりの我が人生

頻出キーワード「じつは〇〇だった!」=訂正する力。
これを読んで、「え、私って実は前からこの力を発揮してたのかも?!」と思った。
具体的には、私は転職しまくっていて(しかも非正規と正規を行ったり来たり)その度ごとに「じつは私の天職はこれだった!」という「幻想」を抱いていた。今もその幻想真っただ中だ(日本語教師こそ私の最後の職業)。

だが、私は自分のことをどこかで「普通の世界、普通の人たちに溶け込めない、ダメな人間で、いつも逃げている」と思っていた。実際そうやって友達に何度も弱音を吐いた。だって「普通に」就職したり結婚したりした友人たちは、大企業で課長になったり、立派に子育てしたりしているのだ。41歳非正規独身。どう考えても終わっていた(その後、シラスとゲンロンの力により、私の人生に奇跡がやって来て180度訂正されたが、去年の年末までマジで何の希望もなかった)。

でも同時に「私の人生が1本のドラマで、私がこのドラマの主人公だとしたら、ここで悪いことが起きた方が後々伏線として効いてくるからオールOK。ダメ人間のほうが視聴者(誰だ)の共感も得られるし!」と信じていた。

「私はダメ人間」「私こそ世界の主役」は、私の中で全く同時に成立する。

私のは「逃避」なのかもしれないけど、でも、これももしかしたら「訂正する力」の亜種なのかもしれない!と思った。
しかし、あんまり安易にこの手法を使い過ぎると「歴史修正」とか「他人に責任転嫁(私が不幸なのは他人のせい、社会のせい)」とかになりそうなので、あくまで現実とのバランスも必要だ。

ただ、普通に馴染めないダメ人間で誇大妄想気味の私にも、ちょっぴり「生きててもいいかな」とお墨付き、じゃなかった、希望を与えてくれるフレーズだと思った。

▼第2章 作家性→それはまさに私のシラスイラスト

作家性・固有名。これもまさに私のことやん。
だって私の絵は全然上手じゃない! それはもう十分に分かっている。 似顔絵も実はよく見ると似てない!(笑)
それなのに、2023年3月のゲンロン友の会総会や、ぶんまる2023(ゲンロン・シラス非公式ミニ爽快「人文マルシェ」in福岡)では、少なからずの人が私の絵を見てくれて、さらには「絵をかいてほしい」と言ってくださる人もいて。←これ、お絵かきクラスタには最高に嬉しいお言葉。

私は固有名にしてもらった。私のような者がが絵をかくことを許してくれて面白がってくれる人々のおかげだ。ゲンロン界隈にはプロの絵描きさん・マンガ家さんも多数いらっしゃるのに・・・! ぬくもりてぃ(´;ω;`)

▼第3章 ベン図キター

ベン図の「時事」「理論」「実存」のうち「実存」という言葉について、うちには哲学ハカセ(※本物)がいるので教えてもらいました。
(サルトルが実存主義ということは知っていたが、意味は知らん。そんな私がハカセから聞いたことを私なりに書いているので後で間違っていたら訂正しますね…。)

実存というのはexistenceのこと。ふつうの言葉だと「存在」という。
たとえば「はさみ」というのは物を切るためにある道具。
でも人間は、人間がいる意味とか目的云々の前にまず「存在しちゃってる」。これが「実存」。理論は空理空論。じゃなくて、そこに実際に存在している。
→私の理解:理論や目的のために生まれたんじゃなくて「ただそこにあってしまった、いてしまった」っていう感じかな?

なおP.158のアドホックは「その場その場で、臨機応変に」という意味だそうです。

へえー。

うちに哲学ハカセが1人いると、とても便利です。

▼第3章 余剰の情報で若さに勝つ

オレたちはどう老いるか。
40歳過ぎて如実に感じる。外見と能力と体力の減衰・劣化・・・。 
周りの若い人達を見て、超超超落ち込む。彼らはまだ何にでもなれる。元気で美しくて可能性に満ちている。

日本は、30代に入ったら終わり感がすごく強い。
30代になったら自分を「おじさん/おばさん」と認識し、若い人に気を使うふるまいが求められる。そしてそれを死ぬまでする・・・。30代から平均寿命まで何十年あるんだよ。金を稼いでも力を持っても家庭を築いても「でも年取ってるじゃん」でオワリ。という感じがしていた。
ほんと年を取ることに絶望しかなかった。

でもこれからは蓄えた余剰があると考えよう。余剰を”武器”に世間を渡るのだ。だって私は確実に人間的には成長しているから(もとが酷すぎた)。
若い人たちの悩みを聞いて慰めたり、「年を取っているのに面白い」「年とっても面白く生きられる」を見せていこう。

▼第3章 訂正する人たち

これも、全然的外れかもしれないんですけど・・・また私の経験をお話しします。隙あらば自分語り。

私と近代日本史の出会いは小林よしのりでした。大学まではよしりんのかいてたことが正しいと思っていた。
でも大学へ行き社会人になると、だんだん今度は左寄りになっていきます(さすがにずっとよしりん100%はまずい)。そして演劇を始めました。そういえば右派の人は演劇をしませんね(なんでやろね?)。Twitterでもいわゆるリベラルといわれる方々をフォローし、東京へ行ってからは東京新聞もとっていたので(※名古屋の中日新聞の姉妹紙なので)ますますリベラルになっていった。

最初リベラルの言うことは全てがその通りに思えた。正しい!!!!
しかし徐々に正しいことで苦しくなっていくような感覚があった。「正しいことを言って正しい行動をしているけど社会は変わる気配がない」。そのうち、自分が四六時中、「社会が悪い! 政府が悪い! 日本終わってる」と社会時事問題を考えては怒り中毒のようになっていき、あるところで「あ、これは依存症だ」と思った。

極端な保守(右)からJリベラル(左)へ行ってみたものの、私の心は暗かった。
光が見えなかったからだ。

その後シラスにハマり、シラシーのオフ会に行くようになった。
そこで私は心苦しくなり、耐えきれず、とあるシラシー(辻田民)に告解をしました。

「実は・・・私、リベラルをフォローしていた時に某映画評論家・M氏のアメリカの時事を扱った著作が好きだったんです。というか今でもその著作は好きで家にほぼ全巻揃ってるんです・・・。本棚に置くのは申し訳なくて見えづらい位置に置いてあるんですけど・・・」

するとシラシーは、そっと私に言いました。

「大丈夫ですよ。僕も読んだことあります。たぶんそういう人は多いはずです。それとこれとは別です」

赦されたと思いました。

いや、何の話や!!!

え、じゃあ、もう1つします!!!!(恥を重ねていく)

私は辻田民ですが、辻田さんの天敵キュウリが大好きです。罪深いことです。でも辻田オフ会では、居酒屋で私がキュウリを頼んでも全然怒られません!!! みんなでパリパリ食べます!!!

どうですか、この信者じゃない感!

何の話や・・・。すみませんでした・・・。

▼第4章 これ辻田さんが勧めた本じゃないか疑惑

事前に「国威発揚キーワード」が出てくるって聴いていたのでドキドキ(ワクワク)しながら待っていたのだが、え、最終章で?!??!? キター篤胤キター!(ちゃんと伏線はあって、日本の思想史をとらえ直すという文脈で出現)

・・・いや、私は辻田chで日々、平田篤胤とか本居宣長とか国学とか、俺たちのキムタカ(平田よりもっとヤバい思想を持ってたらしい。辻田民の人気ナンバーワンの座を、牟田口廉也と二分する存在)とか、そういう人名・単語に親しんでいるけど(改めてどんなchや)、もしシラス見てなかったら、かなり唐突に感じたに違いありません(笑) そもそも本居宣長のこと「国学者」じゃなくて「文学者」だと思ってたし・・・。

もしかして、これらはつじたんリコメンド本なのだろうか?!
(そんなことはなく、東浩紀ほどの思想家・哲学者であれば、日本思想の一つとしてその辺も網羅しているに決まっているのでした)

でもでもでも。
「喧騒のある国を取り戻す」という章タイトルは・・・
トリモロスだし・・・(cf:「日本を、取り戻す。」©自民党)
これはさすがに狙ったんじゃないだろうか…(邪推)。

●全体的な感想

1)変わったっていいじゃないか、人間だもの

人間変わらないのはおかしい。
生きていたら変わらざるを得ないよ。

そういう実感から導き出された本書の哲学は、理論だけでも、時事だけでもない。豊かな哲学の流れを取り入れており、実存だけでもない。

自己啓発本とも違う、不思議な読み心地。

もしかしたら当たり前のことを言ってくれているだけなのかもしれない。
でも当たり前のことも言えない世の中(ポイズン)、
ふつうのことをふつうに、ゆっくり言ってくれるこの本は、すんなり心に入ってくる。
第4章だけ「取り戻す!」だけど(笑)鼻息荒すぎず、でも「冷笑・論破」でもなく、じんわりあたたかい。

2)違ってたら訂正して、また歩き出せばいい

私は知らず知らずに実践?していた。
でもその自分の振る舞い(訂正)を肯定的に受け止めることができていなかった。
これからは堂々「訂正」していきたい。
関西に引っ越してから思っています。その時信じたものを信じていれば、1秒ごとに変わってもいい!と(笑) それはちょっと極端ですが。
私はその時その時を、ニートの時も、ぞんぶんに味わって生きてきた。
「なんか違うな」って思ったら訂正していこう。私のドラマの作・演出・主演は私なのだから。
そして他人の訂正も許そう。

3)人文知賛歌(人文知よ復活せよ!)

実は、全編にわたってひしひしと感じたのは、このメッセージでした。

東さんはあとがき(p.240)で「本書がどのようなひとに届くのか、さっぱりわからな」いとおっしゃっていますが、人文知を担っている人たちと、人文知を愛するすべての人に届くと思いますよ! と言いたい。

人文知は、ざっくり「文系」ってことだと思っています。
文学・哲学などのような「非科学的で情緒的で即効性のない」もの。
でも普通に生きていくのに、これがどうしても必要な人はいる。
ある種の人々の辛さ・「無明」感はこれを知らないゆえではないかとも思っている。

コロナ禍で、日本の文学者、芸術家、哲学者・・・誰でもいいから、何か言葉を言ってほしかった。

でも文化芸術とリベラルは、私の心に何もしてくれなかった。
(これは勝手な言い分で、発信・活動していた方はいらっしゃったと思いますが、私には届かなかったのです)

私自身もコロナがとにかく怖かった。ロックダウンにもやや賛成。
そんな私でも、このような時に力になるのは(もちろん第一義的には医療だけど)そういう「人文の力」だと思っていた。信じていた。

でも聞こえてきたのは「補償(生活を保障)してほしい」・・・

深く失望しました(劇場が閉ざされたことには心を痛めましたが)。

だからEテレの「100分de名著」の「カミュのペスト」の回などを見ました(結局小説は未読)。
昔からこういう疫病はあって、人類はどうやって生き延びてきたか、この時代にこういうパンデミックに遭った意味をどうとらえればいいのか。それを語ってほしかったのに。

そしてどんどん、「文系は役に立たない」(と市井の人々が思う)空気が濃くなったように思う。

エビデンス。科学。医療。公衆衛生。データ。
コロナは「理系」が「抑え込んだ」。
じゃあ文系は何をした?

くやしかった・・・。
だって私はどうやったって理系の人間じゃないのだ。

思春期の数々の苦しみをずっと救ってくれた
文学や芸術の力はどこへ行ってしまったのか。

でも私は文系に失望しないで済んだ。

具体的にどの言葉かは忘れてしまったのですが、東さんの何かのツイートを見て「ああこれを聞きたかったんだ」と思ったことがありました。

東浩紀とゲンロンとシラスのおかげで。
そして、シラシーはじめ、ゲンロン/シラスに集った人々に会えたおかげで。
誤配だ。訂正されたのだ。

これを読んでも私はすぐに世界は変えられないけど、
まず半径1mから変えていきたい。

具体的には、他人に「変わっていいんだよ」って言える人になりたい。

そうやってこれを読んだ人たちがみんな、自分が変わって、半径1mを変えて、そうしたら日本が変わるかもしれない。変わらないかもしれない。
でもやってみようと思った。

私はこれからも自分を訂正し、遡及的に自分のドラマを訂正し続けるだろう。
それは「記憶の美化」じゃないのか、というツッコミも聞こえてくるけど、「幻想」も必要ってことで(笑) あんまりひどい「修正」にならない程度にバランスをとりながらぼちぼちとやっていきたい。

もう一度、文系(元 小説読みの、法学部出身)であることに誇りを持って、生きていきます。

この本を出してくれてありがとうございました!


人文復活!


感想文を書き終えたので、哲学ハカセに譲ってきました(笑)

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