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https://twitter.com/vosot_ikeida/status/1689532759453356032?s=46&t=xJr0EwoLvdTT4A02Ta-PQg

このツイート(あえてそう書く)を読んで。

教育でも福祉でも、真剣に仕事に向き合う人ほど己の無力を嘆くことがあるのではないでしょうか。それでも縁あって出会った目の前の人に何が出来るか考え抜いて日々を送る。ひとりでも良い結果にならなければトコトン落ち込む。

だからこそ「誰1人取り残さない」「誰もが輝く」などという標語の軽さに思うところはあると思います。あまりに標語なのに多用される。

私は「誰もが輝く」ことよりも「今は安心して落ち込む」場所があることを大切に考えています。

本校でもなかなか上手くいかない生徒は本人も保護者も排除されないかビクビクしてしまうことがありますが、

「しゃあないやん、サボってるわけやないんやから。気長に行きましょう。」

という私の考えを聞くと大変安心する様子が見られる。そこから生まれる安心が良い結果につながることもあります。まあこれやりたくて独立してますから。

しかしこれはいかに学校が、通信制高校が排除の論理で動いているかの証でもあります。
もちろんインチキで基準に満たないものを合格にするのは言語道断。でも人それぞれのペースや状況を尊重し安心を確保することを優先すべき人が少なからず居ると思っています。

それ以前に現状の判断なく「高校くらい行かないと」という呪縛に苦しむ本人と保護者の意識改革を促すことも大切だと感じます。

高校に行かない選択肢を伝えることは商売としては利益に反すること。でもお構いなしに希望者は誰でも入学させて後は知らんでは職業倫理に反すると思うんです。

だから出来ること出来ないこと、どういうスタンスで生徒と向き合うのかを自分の言葉でなるべく明確にお伝えして判断してほしいといつも思っています。

「誰1人取り残さない」は陳腐なフレーズだと感じます。気を抜くと人は陳腐なフレーズを使ってしまうものですね。自戒を込めて。文は人なり。陳腐なフレーズの安易な使用は問題意識の薄さの現れ。

出来ることとできないことを明確に、各段階のスペシャリストの裾野を広げ、選択肢を増やすことが教育でも福祉でも大切なことではないでしょうか。

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