過剰介護による社会システムの強制アップデート
コロナによって未来なんて何も変わらない。
しかし、過剰な介護が無自覚な関節的殺人につながるように、旧態依然の社会システムが老衰することで、SDGsに向けたアクセルにはなりそうだ。
だからこそ、再起不能になることだけは避けなければならない。
「え…だって、人はね、どこかに出かけたり、スキンシップしたり笑いかけられたりしないと、すぐダメになっちゃうんだよ」
(引用:羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」[文春文庫])
過剰介護の実践を試みる主人公が彼女に向けて冗談まじりに言ったセリフだ。
主人公の祖父は死を望んでいるのにも関わらず、安楽死をさせてあげることができないことに悔しさを感じている。
しかし、「自分なんて早く死んだらいい」と祖父が言うのは単に相手をしてもらいたいからではないかと疑念を抱く主人公も同時に存在する。
そこで、1日の大半をずっと寝ている祖父の真似を試みる。すると15分も経たないうちに、白い天井を見るだけの時間は絶望をもたらす。ああ、それは嘘ではなく本心なのだと悟る。
そこで介護士の友人から、過剰な足し算の介護で動きを奪えば、あっという間に老衰するという過剰介護の存在を聞かされる。
その実践を試みながら、主人公は筋トレをする。筋肉痛にはなるが、超回復によってさらに強靭な肉体となり、メンタルまで鍛えられることを実感する。
これは、祖父が、介護を跳ね除けて自らに負荷をかけても、ただ老衰を抑えることしかできないのと対照的だ。
この小説は、タイトルのとおり、この二つの「スクラップアンドビルド」に焦点を当てている。
変わらないように見えるものも、実は維持存続のための刺激が常に与えられている。それがなくなったら、すぐに消え去ってしまうだろう。
諸行無常であることは、祇園精舎の鐘の声を聞かなくても明らかなのだ。
三密を目的とした旧態依然の社会システム
日本は、人も機能も何から何までを集積し、それを競争原理に基づいて効率化することで豊かになってきた。日本は高度経済成長を実現し、世界第二位の経済大国になったことはこの「三密」のおかげだ。
しかし、バブル崩壊後はGDPも横這いが続き、2011年には中国に抜かされてしまうわけだが、無論、今日でもこの三密をつくるための刺激が与えられ、機能し続けてしまっている。それどころか、そのシステムは超回復を繰り返してより強固になっている。
さらには、国家予算の多くが社会保障費であり、高齢者のための年金、医療、介護費に使われていることは、国民全体でまだその栄光を称えている、と捉えることができるかもしれない。
問題なのは、そのことに今まで一切の疑問を抱かなかったことだ。それは紛れもなく、三密を義務に押し上げてきた教育、調教のせいであろう。
教室というオリに閉じ込められ、一律のカリキュラムで偏差値教育を受けた。同じ服、髪色をした生徒が収納されて黙って人の話を聞くという、軍隊さながらの全校集会もあった。
しかし、今、これが足かせになってしまっているのは明らかだ。モノの飽和と人口減少によるトップラインの下降は明らかであるのに、三密とその維持のための不必要なコストを払い続けていることで、生産性が落ち続けているのだ。
上手くいったものを変革するためには相当のエネルギーを必要とするので、おじさん達がそれを避けきってゴールすることを目指してしまうのもしょうがないことであるかもしれない。
このようにズルズルと引っ張ってきてしまった三密は、今回の新型コロナウイルスによって、刺激があたえられなくなる。しかもその期間は、数年単位になりそうだ。
それは、この旧態依然の社会システムを過剰に介護し、刺激を与えないことによって衰退させるためには十分な時間だと思う。
密接のために閉じ込める密閉の檻とそれに密集させる移動はオーバーコストになる
今回の自粛対応で、密接の非効率さに気づくことができるだろう。
そうなれば、密接を起こす仕組みとしての密閉の檻は不要どころかコストとして大きすぎるものになる。
そして、もちろん密閉の檻に密集させる必要もなくなる。
①密接の見直し
密接を防ぐために、mtgがZOOMをはじめとしたテレカンにリプレイスされているが、仕事上のコミュニケーションを行う上では、むしろテレカンの方が効率的である。
社内でmtg部屋を確保し集まることすら面倒で、社外の人との打ち合わせに往訪するなんて最悪だ。テレカンによって社内であってもmtg自体の時間は半分くらいになるし、往訪は移動時間も考えれば5分の1くらいには効率化されるだろう。
mtgの議事録を自動化したり、即時自動翻訳によって国境を越えることも可能になれば、テレカン以外の選択肢はあり得ないものになる。
そして、嫌いなスーツも相手を騙すために着る必要はなくなる。仮にテレカンにおいてもスーツを着なければならない慣習が残ったとしても、Snap Cameraのリアル版があればスーツを着なくても良くなる。
逆説的だが、それによって着ても着なくても変わらなくなり、そもそもそのエフェクト自体使う必要すらなくなる。
②密閉の見直し
密接が非効率であり、不要であることが分かれば、強制的に密接な状況を作り上げるための密閉の檻ももちろん不要になる。
檻の撤廃は同調圧力も弱めることにも貢献するだろう。それによって、人材の流動性があがる。檻の一部であった、固定費を増加させ利益率を下げる年功序列や終身雇用も無くなる。
③密集の見直し
空間的な密閉をより効果的にするために時間的にも密閉されている。だからこそ、密集させる過程で満員電車という苦行が生まれる。
ただ、定時労働からの開放は割と普及しているように思えるので、この影響は大きくはないかもしれない。しかし、オフィスに行かなくてもよい、というのはあまり聞いたことがない。
オフィスに密閉することを目的として、公共交通機関の交通網が張り巡らされている。特に東京では人の移動はその利用を前提としている。そして密閉地点には飲食店など都市としての機能が集積してしまう。
もちろん、移動が完全に不要になることはない。人は何のために移動するのか?という問いに答えることは今までとは比べものにならないくらい難しくなるだろう。
なお、上記の考えはすべて、生産行為としての仕事においての話であることを前提としている。
居酒屋での飲み会、ライブハウスでの熱狂など、身体性を要するコトである場合、まだ三密に変わるオルタナティブなものはないし、完全にリプレイスすることは不可能であろう。
デリバリーサービスをはじめとしたモノの移動は今まで以上に活発化するが、コトは移動できないように思える。
再起不能にならないことを前提としながらも、筋トレ期間として自粛したい
もう今日時点ですら、アメリカ、イタリア、スペイン、フランスあたりの死者数は、東日本大震災の数倍レベルとなった。あの未曾有の大震災が世界各地で同時多発している。
しかし、そもそもの話、細菌やウイルスと人類との戦いは今に始まったことではない。
ペスト、コレラ、黄熱病、天然痘は、悲惨なパンデミックを巻き起こしてきた。
パンデミックスリラー映画「コンテイジョン」は2011年に公開された映画であるし、ビルゲイツが人類を滅ぼすのは戦争ではなくウイルスだと言ったのも2015年頃だ。
このパンデミックがいつかは生じるものであったことは形而下の認識であったのだ。
それを踏まえると、たとえコロナが収束しても、次なる感染症が突然変異から生じてくるのは時間の問題である。
であれば、感染症の侵略にも柔軟に対応できる社会システムに、せめて現在のテクノロジーで可能な範囲では刷新しておかなければならないだろう。
繰り返しにはなるが、今は生命も経済も再生不能なまでに破壊されないことを最優先とすべきである。それを最善線で防ぐ医療関係者の方々や生活必需品の流通を支える方々には最大限の敬意を評したい。
***
この戦いの鍵である個人の自粛によって、生産性向上の妨害となる社会システムが衰退する。
それはとてもゆっくり長い年月をかけて衰退していたのかもしれないが、今回の過剰介護がそれを一瞬で強制的に衰退させることになる。
それを横目に、新しい社会システムを生きるための筋肉痛を心地よく感じながら、自粛生活をやり切りたい。
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