禅的なレコメンドアルゴリズム
「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことは全て成るがままにしておくのです」
(引用:オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」 [岩波文庫] )
昼間の新宿は一人一人の人間性を希薄にする。
アルタ前の歩行者信号は緊張した大きなオーケストラの指揮者のように、一振りで多くの人を動かそうとする。
人々はその意図に反してだらっと動きを始めるが、それは反響し合ってすぐに一つのうねりをつくる。
そして一定時間が経過すると、だらしなく止まるので、常に街中の人間が動いているというよりも動かされているように見える。
この無抵抗がわずかに滑稽で、鳥に嘲笑われていないかと空を見上げたくなる。
しかし、夜中の新宿はなかなかに優しくて居心地のよいコミュニティの存在感がおそらく人間性の要素の一つであろう社会性を回復してくれる。
そんなことを考えるのは、イヤホンで塞がっているはずの耳に「東京フラッシュ」が中たったせいかもしれない。
居酒屋の騒々しい光やもの静かに走る車の光が人の影を浮き彫りにする。
灯りが少なくとも10m感覚で感じられ、町全体がちょうどいい距離感で押し寄せてくるこの街も同じ新宿である。
Vaundyの「東京フラッシュ」 は久しぶりにリピートで聴いた曲。
Instagramのストーリーズで友人が推していたのが偶然目に止まった。
それをAppleMusicで調べるとさらに類似アーティストがレコメンドされる。
協調フィルタリングだ。
そしてアーティストページにはトップソングが羅列されていて、それを聴きながらプレイリストに加えるのかどうかを数十秒のうちに判断してしまう。
多腕バンディットのようだ。
Youtubeで検索すると、自分が頻繁に聴くアーティストの中に名を連ねてくるようになり、Instagramではストーリーズの隙間を埋めるようになる。
デバイス、メディア、コンテンツの移り変わり
活版印刷、写真、映画、テレビ、PC、スマホといったデバイスの進化によってメディアの形態も変化した。その後を追うように、その中身であるコンテンツも確実に変化している。
ミレニアル世代にぎりぎり収まっている自分自身の人生という時間軸、つまりは自分がユーザーとして慣れ親しんできた直近の2、30年間のメディアおよびコンテンツを3段階に分類した。
Z世代は①を知らないだろうから宇宙人的な怖さがある。
①プロパガンダ
みんなの「好き」とか「かっこいい」といった憧れをマスメディアが定義し、それに合致するものがメインストリームとされ、それを知らずには生きていけなかったとも言える時代、最大公約数的に収束するコンテンツ
②レコメンド
コンテンツをカテゴライズし、カテゴライズされたユーザークラスタの興味関心に合わせてコンテンツを届けられることでコンテンツ、ユーザーともに多様化し続けるダイナミックな時代
③セレンディピティ
多様化の成れの果てに、既存カテゴリの枠を逸脱したコンテンツと個人単位でのユーザーとの出会い(セレンディピティ)によって感動が生まれるパーソナライズ時代、最小公倍数的に発散するコンテンツ
レコメンドによるプロパガンダからの解放
映画はもともと大衆に向けた、政治的な意味合いを存分に含んだ確かなメッセージであった。
ドイツではナチス以前から映画がプロパガンダとして重要な役割を果たしていたし、中国では1949年以前の中国やアメリカ映画の上映は禁止されているほどだ。
アートという表皮を纏った大衆を統制するプロパガンダである。
そして、テレビはその映画のプロパガンダ的系譜を確かに継いでいる。
自分が少年として生きた時代においては、テレビがマスの権力を振りかざし、それに根ざしたメインカルチャーが世の中の大部分を支配していた。
今思えば、どんなときであってもバラエティ番組やドラマが共通の話題であった。特にエンタの神様。
ただ、ある程度の年齢を重ねてからは、その背後にサブカルチャーが存在することを認識し、そこに自分の居場所を見つけることを通じて、自分という存在の特殊性を描きながら遊ぶことができた。
現在はレコメンドにイニシアチブを握られて大部分を不必要で覆われることで、閉塞感を言い訳に受動的になりがちである。
自分で自分の居場所を見つけるというプロセスを踏んでいるはずなのに、それがすでにみんなが知っている居場所、コミュニティになっている。
誰も聴いていないような音楽を好んで聴くことがイケてると思っていた自慢気なサブカル中高生は、もう存在し得ないのかもしれないと考えると少し寂しい。
学校からの帰り道に友達のiPodで聞いた曲を、TSUTAYAに行ってCDを借りて、家に帰って即座にPCに保存してiPodに入れるようなことも、今となっては友達と話す必要すらない。
Apple Musicによって5秒で完了してしまう時代になった。
さらにはSportifyで無限にレコメンドされる音楽だけを聴く人も少なからずいるらしい。
Netflixは映画の顔であるジャケット写真(サムネイル画像)さえもクラスタリングされた個人に最適な形で届ける。
たまに何の映画であるか分からなくなったり、自分が好きな映画のマッチ度が低いと苛立ちすらもする。
もはや感情を持って対話できる予備校の先生みたいな存在になった。
レコメンドによって全員が同じものを観たり聴いたりすることは圧倒的に少なくなり、同調圧力が働く余地がなくなった。
好きなことを好きと言いさえすれば既存コミュニティから人間的な反応がもらえる時代になったとも言える。
さらには、レコメンドを建前にすることで好きなものを好きと言うハードルが一段階下げられ、半自動的に何かしらのコミュニティや派閥に入ることができる。
これ自体は、この上なく素晴らしいことだ。
レコメンドの波の潮目に生じるセレンディピティ
ある一定のクラスタリングが基準とされてレコメンドされることで、コンテンツはまだ最低限のまとまりを保っている。
しかし、レコメンドにより現在進行形で発生している多様性、エントロピーの増大は不可抗力であり、いずれはユーザーを現状のクラスタリングに当てはめられない時代にするのも時間の問題だ。クラスタリングに最適化したコンテンツは意味を持たなくなるだろう。
Tiktok を見ていると、このコンテンツの多様化がはっきりと現前する。
Tiktokがやりすぎなくらい大規模なアプリインストール広告を運用し、マスの認知を得てまもない頃は、画一的にフォーマット化された踊ってみたと、可愛い子の自己アピールといったコンテンツに占有されていた。
しかし、ユーザー数が増加する(国内では2019年時点でMAU950万人、全世界では2018年の時点でMAU5億人らしい)につれて、もはや粒度を揃えてカテゴライズするのが不可能であるのにも関わらず、数十秒で面白いと思えてしまうような、圧倒的高密度なコンテンツが大量に供給されるプラットフォームになっている。
(コンセプチュアルな料理、ピタゴラスイッチ的なギミック、あっと驚く特撮、 20秒で笑えるお笑い、シュールすぎる自作アニメ、本当にためになる雑学、パルクールやBMXなどのマイナースポーツ、絵画や建築の成り立つ過程など思いつく限りでも枚挙に暇が無い)
そのような多様化の進む世界で、自分が経験したことがないほどに心を動かされるコンテンツに出会うことは、まさにセレンディピティであろう。
レコメンドとして意図的にセレンディピティに近いものを発生させるためには、背景に潜むコンテキストを相当解像度高く捉える必要がある。
加えて、レコメンドすることを前提としていない予定不調和なレコメンドであることも必要条件であろう。
ここから類推するに、最終的には竹馬の友からのレコメンドを突き詰めた、禅的なアルゴリズムによるレコメンドに行き着く。
「純粋に精神的な鍛錬に起源が求められ、精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は実は自分自身を的にし、かつその際おそらく自分自身を射中てるに至るような能力を意味している。」
(引用:オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」 [岩波文庫] )
ヘリゲルは日本で学んだ弓術において鍛錬すべき能力から、母国であるドイツとの比較によって日本特有の「禅」の輪郭を浮き彫りにした。
極めて個人的な体験を共有可能なほど密接に関わり合い、直感的な解釈のみを頼りに、相手の興味関心を実像として捉えることがレコメンドの成れの果てであろう。
禅に関しての逆説的な説明を文字通り解釈することには一抹の危険を孕むが、狙っていると的には中たらない。
このロジカルではない直観的なものが有効になる蓋然性は高い。
セレンディピティが生じる潮目としてのコミュニティ
栄養豊富なプランクトンが集中する潮目であるコミュニティにおいてこそ、セレンディピティは生まれる可能性が高いと考える。
コミュニティとは参加者がインタラクティブに価値を提供し合い、享受し合う場所である。
酒を飲みながら、好きな音楽を順番にかけ、とりとめもない会話を交わす、バックトゥバックのような現象。
それこそが実は将来性のあるレコメンドであり、そこには無数のセレンディピティがある。
バックトゥバックコミュニティの価値は上がり続けていくし、その発見やアクセスもどんどん容易になっていくだろう。
そのようなコミュニティの中でのアルゴリズム(レコメンドされるための必要十分条件)は、当人の感動の深さだけを変数とした計算式においてある一定のしきい値を超えることであろう。
感動の深さという点では、街灯で配られるポケットティッシュのように、ただレコメンドされただけのものでは感動できなくなっている。
自分で見つけた感、運命を感じられるような出会い、つまりはコンテンツと出会うまでのストーリーがモノ消費じゃなくてコト消費へと引き上げることで、感動が深まりレコメンドしたくなる。
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これが好き、これは嫌いと幼稚園児のように文句を言っていれば、好きなものに囲まれて過ごせる時代だ。
自分の興味関心、大事なものをどこかのクラスタの誰かが決めてくれる時代だ。
それと同時に、本当に自分が好きなものを見失ってしまう時代かもしれない。
これを好きな自分で良いのかどうか、という贅沢な悩みすら生まれて、目的を喪失してしまうかもしれない。
当然のことながら、コミュニティの一員としての役割を全うしなければ、自分にとって本当に価値があるものは見つからない。
それはレコメンドがどれだけ進化しても同じであるどころか、むしろ進化すればするほど顕在化するだろう。
悩んでいる暇があれば役割を果たすことから始めるべきだ。
研ぎ澄まされた感覚を持った人たちと刺激し合いたいし、そういうコミュニティは自己肯定感すら増幅させてくれる。
未来に行くことができる気がして面白そうだ。
コンテンツに限らず、あらゆるものの進歩のスピードが加速度的に速まって、その方向すらも増殖を繰り返して指数関数的に増大している。
エントロピーは増大していくばかりで、多様性は間違いなく目の前に現れているのだ。
セレンディピティを通じて自分自身が「これだ」と確信できるものに出会い、刺激を受けることを繰り返しながら進化したい。
その過程で進化した超個人が、点となって線で繋がることで形成される空間のようなコミュニティを自分のためにつくることができたらいいな。
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長期的なLTVを上げるようなファンを定着させていくためのコミュニティ(もちろんインフルエンサーによる一時的な接触ではない)は、大手メーカーD2Cの文脈においてまでも注目されている。
しかし、定着ないしは認知の前段であるレコメンドにおいても最適解がコミュニティになりつつあるのではないか。
画一的なプロパガンダ的コンテンツは、レコメンドによって解放され、漸進的に多様化した。
そして、その多様化が今にも爆発しそうなスピードで進行している。
発進の場としてのSNSはもちろん、コンテンツ制作においてもTiktokをはじめとするアプリで簡単にリッチなエフェクトの動画を作れるし、adobeもSaaS化により利用しやすくなって、それによりさらに機能の進化スピードが上がっている。
コンテンツの発散を制御できなかったレコメンドが、セレンディピティを自由自在に扱うために行き着く先は、禅的なレコメンドアルゴリズムである。
つまりは、行間を読み合うことのできるコミュニティであると考える。
「日本人にとっては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには決して語られも考えられもせず、結局はただ経験したことのある人間によって経験されうるだけである。」
(引用:オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」 [岩波文庫] )
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