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葉山と芸術


今年2018年は「明治150年」ということで、日本近代というものに思いを馳せるにはうってつけの時節ではある。芸術という言葉は明治以前にも存在したそうだが、「美術」とならぶ近代概念として、この150年ものあいだその概念をめぐり、どのような変遷があったか、その名のもとに、なにがどう形成されてきたのかに冷静に思いを馳せるにうってつけのタイミングであるにちがいない。
自分の年齢を考えれば、150年のうち、三分の一以上を生きているわけであり、そう思うと150年は長いようで短い。70代であれば半分生きてる計算である。西洋から移植された芸術/美術の概念は(あるいは絵画や彫刻という概念)は日本社会において、自明の基礎であるかといえば、じつのところまったく取り扱いに困る事項でありつづけてきた観がある。それは「民主主義」や「人権」に似ている。

記憶を辿るに、「アート」という言葉がわりと気安く人口に膾炙するようになったのは、80年代の初頭あたりだっただろうか。「へたうま」イラストレーションがもてはやされ、イラストもアートになりうると持ち上げられ、ニューヨークのストリートシーンから出て来たキース・ヘリングの「落書き」が一世を風靡し、来日したあたりのことではなかったかと思う。一定の重みを伴った「芸術」から軽やかな「アート」への転換はそのようにして起こっていった。ポストモダンというタームが時代のキーワードとしてそこかしこで華々しく喧伝されていた。ちょうど自分が芸大を受験していた頃のことだ。

1981年、十代最後の夏、通っていた鎌倉の美大予備校(一浪目)のコンパの会場は葉山の森戸海岸で芸大OB が中心になってはじめた手作りの海の家「オアシス」だった。芸大つながりで選択されたパーティ会場であったのだ。異次元空間と呼ぶに相応しい竹でつくられた建物や椅子の完成度に「さすが芸大」という妙な感心の仕方をしたのを覚えている。コンパの最後にはしたたかに泥酔した高校生の後輩が浜のゴミ箱に体を折り曲げて入っていた。
思い返すまでもなく、その鎌倉の美大予備校とその必然ともいえるような「オアシス」との出会いが自分のその後の人生を決定づけた。

わりと素朴に「泰西名画」とよばれるようなルネサンス以来の西洋絵画の世界(ことにルネサンス絵画)に惹かれ絵の道を志して、地元鎌倉のその美大予備校に通いはじめたとき、そこにあったのは自分がなんとなく期待し想像していたアカデミックな美術教育とは似ても似つかないものだった。そこにあったのはむしろ反アカデミックであり、反古典・反理性の教育であったと今にしてつくづく思う。
先に述べたように70年代末から80年代初頭にかけて、時代はポストモダン的な反権威、反教養主義的な感性主義で沸き立っており、いっぽう「ニューアカデミズム」と称される現代思想がブーム化していた。コンセプチュアル・アートを経て「美術」とか「絵画」というものは晦渋の極みにおいて語られつつ、その美術の外部ともいえる系譜からくる”アーティスト”つまりバスキアやキース・へリングがもてはやされつつ、芸大(油画科)は当時40倍の倍率だったが、その難関を突破して入ったところで誰も絵なんて描かないよと合格した先輩から聞かされると、なにがやりたくて美大進学を志しているのか、本当によくわからなくなってくるのだった。芸大を目指しながらも結局従来的な「美術」という分野にはもはや希望がないように思われるのだった。自分はべつに現代美術というものをやりたいわけではなかったから。もっとも予備校に行き始めた頃、まず興味をもったのはマルセル・デュシャンであった。キュビスム/フォーヴィスム、シュルレアリスム、アンフォルメルに抽象表現主義、その後のポストペインタリー・アブストラクション、ポップアート、ハイパーリアリズム。あるいはもの派、等々のポスト印象主義以降の20世紀美術の動向を知識として貪婪に吸収しつつも、到底消化が追いつかず、頭の中はあたかも錐揉み状態のようであった。ポストモダンのムードに沸き立つのはいいが、いまだ20世紀前半のモダンアートの咀嚼もままならず、絵画の終焉やら絵画の復権やらと喧しく、それ以前に予備校では幾何学遠近法の講義すらなかった。
そんななかで芸大OB/オアシスの人々との宿命的としかいいようのない出会いとともに、レゲエミュージックに惹かれ傾倒するようになり、83年にはオアシスの人々とレゲエバンドを組むに至った(ドラマーとして—もともとドラムは12歳から叩いていた)。大学には当然のように受からなかった。

日本のモダンアートにおける稀代のアジテーター、岡本太郎の提唱した対極主義という概念がある。約めていえば、事態の両極を受け入れ、調停を図ることなく対極の矛盾に引き裂かれつつ生きよというものだが、自分は”太郎”に影響を受けるまでもなく、対極主義を地で生きて来た観がある。
葉山にあって異色な上にも異色な海の家オアシスの、その3年目から関わることになるのだが、自分が生まれ育った英文学/ロマン派研究を専門とする大学人(アカデミシャン)の家庭の雰囲気からすれば、そこはもはやこの世のものとは思えないほど対極的な世界だった。8月おわりの最終日には辺り一面エスニック料理と選り取りみどりの楽器が並べられ、一大フリーセッションが繰り広げられ、誘われて私は未だよく理解していないレゲエのドラムに挑戦したのだった。手作り建築の解体を手伝いながら、トラックで内陸の倉庫を行き来しつつ、道端で冷たい湧き水を飲んだ。18世紀英国の書物の放つ黴の匂いとともに育った自分にはそれはまさにパラダイスというのに相応しかった。
ひとことでいえば、”オアシス”が体現していたのは、究極の反アカデミック世界であった。あるいは反書物、反西洋近代的世界であり、アジア・アフリカ・カリブ世界への親和であり、音楽至上主義ともよべるような身体性優先の世界だった。アカデミックな世界観からすればなにからなにまでが「さかさま」だった。
3浪目にして芸大受験を諦め、父親のすすめで行ったロンドン(とヨーロッパ諸国)の旅は美術研修と称しつつ一方でジャマイカにつぐ第二のレゲエの本場であるイギリス/ロンドンのレゲエシーンに間近に触れる旅でもあった。西洋と非西洋のまさに対極性を自分のなかで先鋭化させてゆくような旅であったと思う。その後、オアシス系ともいえるコネクションを辿って六本木のデザインスタジオに勤務しつつ、一方で父親の要請で英国紅茶の本のイラストレーションを手がける事になった。イラストレーターとして、受験においては探究しきれなかった写実に水彩というメディウムを通して取り組む事になった。それにしても英国紅茶とジャマイカン・レゲエというのは実際問題として世界史的なイシューであった。レゲエという音楽は英国の帝国主義・植民地主義なしには存在せず、その大英帝国の繁栄はプランテーション工場たるジャマイカにおける奴隷労働なしにはなかった。その対極の対比において自分にとり「芸術」とは自明のものではなくなった。ルーツアフリカと西洋近代芸術のコントラストはじっさい文明論的ともいえる懐疑を呼び覚まさずにはおかなかった。西洋における油彩画の400年の歴史に奴隷制400年がぴたりと重なるのだった。

大きく捉えれば、20世紀という時代は19世紀の価値観の転覆の時代として見ることが出来るだろう。19世紀の価値観とは美術でいえばまずもって新古典主義のそれであり、あるいはヴィクトリア朝的道徳観というような事も言えると思うが、20世紀という時代に見事なまでにそれらの価値観がひっくり返った。現に20世紀末の美大予備校に支配的なムードは反アカデミックであったが、教える側みずからが石膏デッサンに違和を表明し、反アカデミックというのは、時代状況を忠実に表わしていたとおもう。あるいは受験デッサンにおける反古典主義傾向は明治の東京美術学校/黒田清輝以来の伝統そのままともいえるのだが。

20世紀、60年代からのポップカルチャー/音楽産業のルネサンス的な隆盛と世界的な学生運動・反体制運動の盛り上がりに伴い西洋知性の威信は地に墜ち、西洋理性の抑圧の対象であったものが一気に圧力釜のバルブを開けたときのように吹き出し、その存在を露わにした。ロックミュージックはその急先鋒であり、レゲエは70年代にもっとも先鋭的な”ロック”としてあった。オルタナティヴのコミュニティにおいては、逆に西洋近代的なものが異端となる。ひとくくりに西洋=抑圧者として。20世紀の反覆が極点に達したとき、今度は西洋的なもの、理性への抑圧という問題が出て来る。
「芸術」においては、その西洋由来の性質をことごとく剥がされ、西洋美術は抑圧者の美術として異端視されることになる。というか、それは実際に20世紀前半の美術の世界で起こったことだ。アカデミック=悪という反アカデミックのアカデミズムとでも呼びたいものがそこで形成された。その根っこにはプリミティヴィスムがあり、そのまた根っこにはロマン主義がある。そう思えばロマン派研究者の家に生まれ育った自分が20世紀末に絵画とレゲエの相剋を抱えるのは必然とも思えるのだった。

レゲエミュージックで言えば、70年代に興隆した西洋近代文明=バビロンの悪を告発し、呪詛を投げかけ、アフリカ回帰を歌い上げる「ルーツレゲエ」は多くの魅力的な楽曲の宝庫であり、近代奴隷制度の歴史に鑑みれば、その怒りはきわめて正当と思えるものがあった。しかし、そのルーツレゲエが商業化し堕落したロックにおける第三世界からの救世主としてもてはやされ、グローバルな認知を得たと同時にレゲエはドメスティックな娯楽へと回帰し、セックスと暴力と薬物にまみれた野卑なダンスホール音楽へと変節したのだった。被抑圧の苦しみと悲しみを歌って来たレゲエが抑圧的なマッチョイズムへと反覆したのだ(海の家オアシスが90年代に経済的な成功を得たのはそのダンスホールレゲエの導入によるという皮肉)。それが20世紀末に起こったことであり、そこには非常に考えさせられるものがある。

90年代初頭に当時住んでいた逗子から葉山に引っ越そうと決めたのは、オアシスの存在あってこそだったとはいえ、どちらかといえばそこで静かに絵が描けるだろうという思いがあった。しかしそれはとんでもない誤算であった。越して来た途端、オアシスの規模拡大と葉山芸術祭の生成に関わることになり、しかもほどなくして葉山の家のまわりは保養施設などの広い土地が売り払われて新築ラッシュとなり、しまいには建築工事の轟音が聞こえない日はないというくらいのもので、東京の開発されきったエリアにでも引っ越した方がよほど静かに暮らせたのではないかとすら思えた。
2000年代に入って水彩画の講師業を始めたのは経済的な理由からであったが、それは英国紅茶のというイメージがつきまとうイラストレーター業にほとほと嫌気がさし、いいかげんに自分の絵を描きたいという思いから、仕事の依頼を断っていったことによる。しかしそもそも自分の絵といったところで、仕事で培った水彩技法のスキルは別として自らの美術の基盤の脆弱さを思い知るばかりであった。水彩画の講師業は、教えることで自分自身が美術を基礎からやり直すという面が強かった。大学のオープンカレッジ・プログラムゆえに巨大な図書館を利用できるという利点もあった。自分としては「葉山」を断ち切って、はじめて東京/近代へと向き直り、まがりなりにもアカデミックな世界に、美術史と絵画理論とに正面切って取り組んだ15年間だった。アマチュア画家に学びを提供すると同時に日本における美術なるものの一般的な認識をフィールドワークしているようなかんじでもあった。

今の葉山に文化的な活況があるとすれば明らかにオアシスと葉山芸術祭がその基点になっているように思う。もちろんすべてがそこに帰すわけではないにしろ、非常に大きなファクターでありつづけてきたことは確かだと思う。これは別に身贔屓でもなんでもなく。80年代は言うに及ばず90年代初頭に葉山に越して来たときは、閑散とした、なにもないのどかな田舎町という風情だった。たしかに「なにもない」町だった。あるのは旧世代のヨット・マリン文化であり、現在のオルタナティヴ系のライフスタイル、あるいはロハス系ファミリーの暮らしのスタイルはオアシスと芸術祭に端緒を見ることが出来る。それは単純化すれば、東京芸大を出た既成の美術のイディオムに絶望した人々によって始められたオルタナティヴ・ムーヴメントの結実であるように自分には見える。

もとはといえば60年代のヒッピーカルチャーに端を発する(さらに遡ればロマン主義なのだが)オルタナティヴ指向が芸術と結びついたときなにが起こるかの実例を葉山の地においてつぶさに見て来た観がある。Art After Art(芸術が終わったあとの芸術)という言い方があり、それは現に—べつに大袈裟ではなく—西洋近代文明が20世紀において極点を迎え、覆りを起こした事、それまでのつまりルネサンス以来(大航海時代以来)の拡張主義の顛末としてあると思う。20世紀の美術の革命的な様相と60年代以降の(袋小路に入ったといわれるような)失速と入れ替わりのほとんどルネサンス状態ともいえたポップカルチャーの開花との対比は21世紀に芸術を考える際に重要な点であると思う。

そもそもイギリスでロックを創成したひとたちというのはほとんどひとり残らずというレベルでアートスクール出身者であるのだが、美術への絶望とともにアフリカンルーツのブラックミュージックにかぶれた美大出身者がポップカルチャー(カウンターカルチャー)の基礎を形成してゆくという構図は、たしかに80年代の葉山オアシスに反復されている。音楽は産業化し、人々のライフスタイルに多大な影響を与えたが、60年代以降、産業化しようのない芸術/美術に起こった事はといえば、晦渋化あるいは意味の空洞化であった気がする。気がつくとポップスターが「アーティスト」と呼ばれていた(たぶん80年代からのMTVの隆盛による)。

パーソナルコンピュータもインターネットもスマートフォンもまた、60年代のサイケデリック革命/ヒッピーカルチャーを祖としてもつ。デジタライゼーションにおいて、ひとりひとりがメディアを手中に収める。80年代でさえ、自分が考えていることを活字化し、万単位の人々にむけて発表しようと思ったら、どれほどの労力がかかった事か。それがいまや、てのひらのうえで瞬時に叶う。
誰もが写真を絵を音楽を発表し、イベントは恒常化し、音楽のあらゆるレア音源、レア映像—30年前それを得ようと思ったらどれほどの苦難が必要だったかとおもえる—が無造作に転がっている。その代償として「ロマン」は消え失せる。有り難みが消え失せ、麻痺状態となる。

ポストモダンとは、近代遺産の食い潰しのことかとも思える。実際、「平成」とは昭和の遺産というか、明治以来の近代遺産の食い潰しの時代のようにも見えなくもないが、自明とみえていた近代性がじつは思うほどには成り立ってはおらず、それに気づくとともに、遺産が食い尽くされフラット(平らに)に成りきった時代というようなかんじがある。いまやSNSで日本社会の衰退が嘆かれない日はない。ただ葉山にいるとSNSで日々呟かれるそんな日本社会の惨状も、のほほんとした海辺の光と潮騒の音によってどこか違う惑星の出来事のごとく映るということがある。

オアシスに出会う10代の終わりまで、葉山には数えるほどしか来た事がなかった。子どもの頃、父親に連れられて釣りにきた葉山の海が一色だったか森戸だったかも定かではなく、ただ釣り糸を垂れた葉山の海の光のことはよく覚えている。鎌倉の海辺の光とはあきらかに異なっていた。光にまつわる記憶はより鮮烈だ。その記憶は未だ逗子マリーナが出来る以前の小坪の入り江が子供心に夢のように美しい場所であったのと連なる。一方鎌倉の海は夏ともなると途方もなく猥雑で、波打ち際でやる丸いスキムボードが大流行しており、砂浜では入れ墨をいれた人たちが麻雀に興じ、遊泳区域の暗く濁った海面全体にうっすらとサンオイルが浮かび、ビニールゴミがそこいらじゅうにプカプカと浮かんでいた。海から五分程度の家にいて、エレキサウンドが聴こえて来る。浜にステージが高い位置に立てられ、その上でイカレた風体をしたお兄さんたちが大音量でサイケデリックなハードロックを演るのを下から見上げていたというのは子ども時代の原風景だとはいえる。

保養地・別荘地として拓け、いにしえの文学者・芸術家の住処や交流の土地としてのエピソードには事欠かない葉山、鎌倉そして逗子、という海辺の町はロマン派によって見いだされた土地であるともいえる。歴史的にみればそれは明治近代の「風景の発見」によって見いだされた土地である。「保養地」ならびに「別荘地」というのは、近代文明における近代文明からの避難所であり、退却のエリアである。そしてまた「芸術」もたいていはそのようなものとして捉えられているように思う。

ロマン派(父の研究対象)には愛憎入り交じる。彼らは遠くからやってきて、土地の自然と無垢を賛美し理想化するものの、その「地元民」からしてみれば、冷めた感情がある。鎌倉は文学者の好んで住む町として文化的な土地とされているが、若い感覚からすれば先端的な情報、刺激というものは、海辺のサーフィン文化を例外としてなにもないに等しく必然、意識は東京に向く。向くのだが、その意識は海辺に渦巻くロマン派的な反近代文明の潮流と真っ向からぶつかる。端的に東京は悪の都であり、自然豊かな海辺の町は無垢で善なるものなのだ。浜がどれだけ猥雑であったとしても。

歴史を繙くと、近代日本の生成じたいにアクセルとブレーキを同時に踏むがごとくの西洋主義と反西洋主義(近代主義と反近代主義)の趨勢の抜き差しならない相剋の力学が作用していることがわかる。明白な非西洋の地域における近代国家の創成確立ということには最大級の困難がつきまとう。美術史的にいえば、マネのオランピアが描かれたのがちょうど明治維新にあたり、以降、ルネサンス以来の再現描写絵画のパラダイムの解体をこととする前衛主義の流入と美術の基礎づけの(アクセルとブレーキを同時に踏むがごとくの)齟齬に日本近代美術は悩みつづけることになる。19世紀末ヨーロッパはジャポニスムに沸き立ち、日本の側からいえば西洋近代文明を成り立たせる芸術・美術の根本を学ぼうにもそれはもはや西洋自らが否定しているようにも見えて、逆にジャポニスムを内在化させつつ西洋の期待する日本を演じつつ、世界レベルで先鋭的前衛的でもありつつという無理な注文を自らに課しながら、じつのところ基礎部分はいつまでたってもないがしろになったまま。思えば自分の美大予備校時代のジレンマそのものである。

そもそも規範のないところでの反規範という日本的な「芸術」のありかたには非常な違和感がある。そこでは当の規範(アカデミズム)がどういうものであるのかが棚上げされ、内実が検討されないままに反規範の身振りばかりが幅を利かせる。19世紀から20世紀にかけての世界史の展開をおもえば、それも無理もなかったというほかないのだろうか。いっぽう20世紀をなかったことにするような19世紀回帰(アカデミー絵画回帰)のムーヴメントにも—部分的には首肯できるものの—到底全面的には賛同できない。

反自然/イデアリスムを根本にもち言語/批評を重んじる垂直的な西洋近代の個人主義芸術の終焉が宣言され、自然に寄り添い、批評が介在しない水平的なコミュニティ志向のポストモダンアートの意義が謳われる。
じっさいにオアシス=芸術祭における、ブリコラージュの感覚、オルタナティヴ・コミュニティのファミリー的な結束、水平的なネットワークの広がりというのは得難いものであり、画期的なものであるとおもえる。
しかし、葉山芸術祭といえば、従来的な西洋美術中心の芸術観からいえば、芸術にたいする蹂躙として見えかねない。そこにある力学は芸術の民主化、インターネットに乗じた脱ヒエラルキー化と言い得るのだが、根底には非西洋の精神風土における西洋近代へのカウンター、西洋的な言語構築にたいする厭悪とがあると思う。だとすれば、芸術という言葉を使うのはアンフェアなのではないかと思ったりもしてきた。歴史的にいかに西洋近代文明が非西洋からの搾取で成り立っている面があるとはいえ、実際に微妙な問題ではある。芸術の地政学と呼びうるような西洋と非西洋の相剋の力学が葉山という土地で先鋭的に露出しているというのは、一見不思議な事ではあるが、この土地の自然と、根本的な近代性からの免責(御用邸の存在+電車の駅がない)のうえに、先鋭的かつ過激とも言える脱近代の試みが繰り広げられて来たことによるとおもう。自分はその展開の様子をこの40年ちかく目の当たりにしてきたというか、展開を押し進めて来た側でもある。

自分は西洋美術からいうまでもないというがごとく多大かつ根底的な影響を受けているし、日本の古典や非西洋の文物からも影響を受けている。アヴァンギャルド、音楽を中心としたサブカルチャー(カウンターカルチャー)、ポップ、ニューエイジ、オルタナティヴカルチャーからも多大な影響を受けている。それらの影響関係において様々なものが渾然一体となりながら、相対化の極みを生きているという実感がある。アカデミックな領域と非アカデミックな領域を行き来しながら、互いを精査し、吟味しているようなところがある。多元的であり、複属的であるといえる。しかし、文化における多元性、複属性というのは聞こえはいいが、実際それを生きるとなると、たいへんなものだと思う。一元的に割り切って生きられたら(ビジネス的にも)どれほど楽かとも思ってきたが、ただ、近年のインターネットの発達、SNSの隆盛において、必然的に生活のありかたが多元的、複属的であるのが当たり前になってきており、その点では昔のような肩身の狭い思いをしなくて済んでいるということがある。あらゆることが「軽く」「さらっと」扱われざるを得ないSNS時代において、気楽さと物足りなさとが混在する。水平的なネットワークにおいて、どうしたら垂直的な深みや奥行きを実現出来るのか、ひとつの課題としてある。高度情報化における「深み」「奥行き」の問題というのは、真に芸術の問題であるとおもえる。

葉山には癒されて来たと同時に鍛えられて来た。芸術といったとき、ある意味で葉山は過酷な土地である。というのはこれまでさんざん述べて来たように西洋近代と日本近代(の近代性のありえなさ)の相剋において、80年代以降、海の家オアシスからはじまった実際問題として非常に過激な脱芸術運動の展開の場としてあってきたからである。2000年代には美術館が出来、オルタナティヴとエスタブリッシュメントが芸術/アートの名において、出会う事になる。そんななかで自分は東京と葉山を行ったり来たりしながら、アカデミック世界と海辺のストリート世界を行き来しながら、絵を描き、教え、本を書き、そして音楽をやってきた。
明治150年、平成最後の夏、心身の根底を問われるがごとくの酷暑と災害のニュースの日々、芸術なるものの意味もまた新たに激しく揺さぶられつつあるとかんじながら、日々にある手応えや予感を頼りにして、生きている。様々な観念同士が出会い、恊働と離散を繰り返しつつ、意味の再編は続いてゆくのだろう。
目下の興味は、ひとつには自分にとり美術の道への入口であったルネサンス芸術への—中世美術をも交えて—今一度探究を進めたいというもので、もうひとつは自分にとり、美術と同等の強力な影響を蒙ったレゲエにおけるダブという手法(リミックスと言い換える事も可能な、楽曲の大胆な再編集の手法)への今一度の取り組み。ずっと取り組んで来たといえる理性的なリアリズムの道と身体的即興性というところの探究をより洗練させていくこと(それは講師業にとっても重要性をもつ)。そして美術の勉強会(あるいは音楽の)というのも催して行きたいと思っている。ドラムのプレイや音楽制作も、美術の探究のかたわらであれば、なかなかまとまった時間がとれないけれど、諦めたわけではない。煎じ詰めれば、テーマは思考と身体性のバランスということにもなりそうだ。それは芸術における近代性(そして脱近代性)ということにおける核心テーマとおもえるが、葉山の地において与えられ、そこで生きることが探究の土台となるという性質のものだ。葉山という土地には癒され、そして鍛えられる。


補遺

昨年、国立近代美術館で行なわれた「日本の家」展は非常に興味深い建築の展覧会だった。以前から建築と絵画の関係については関心を寄せていたのだが、戦後日本の住宅建築の系譜をフィーチュアした展覧会において、その戦後日本の住宅設計がいかに絵画というものを等閑視してきたかが手に取るようにわかったのだった。50年代においてはいくばくかの絵画の余地が見られたのが、効率化とハウスメーカーの台頭する60年代を分節点として、日本の住宅から絵画を受容する余地が失われる。60年代は反芸術、反絵画の時節であった。見たところ、住宅壁面に絵画の余地が現れて来たのは2000年代以降であった。冒頭で触れた「明治150年」、そこにおける建築と絵画というテーマを設定したくもなる。

追記

この文章は2018年に参加した葉山のアートグループのミーティングにさいし、ブレインストーミング的な意味合いで要請され書いたものである。それゆえ、どうしても葉山で作家として暮らしていればこそ自明という事柄や、そのアートグループのメンバーの固有性に依存するような事柄が随所にあって、そこのところは分かり難さがあるかもしれない。

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