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あげまんママは、子育ても豊かさの源泉である。

長男が不登校を始めて、
わたし自身の見聞が広がりました。

私自身が元不登校児なので
なんとなくわかっているつもりだったけど、

時代も違うし、
不登校児と言っても、みんな違う。

私はまだ世の中的に
「学校は行って当然」という風潮があることに
びっくりしたし、

だからこそ、
不登校児を育てる元不登校児として、
わたしが伝えられることもある、
とも思いました。

わたしの時代は「登校拒否」と呼ばれ、
事例も少なかった。
1990年くらいの話なので、
30年違うんだものね。当然か。

でも今は事例も増え、
「不登校の先の選択肢」も増えた。

元不登校児の有名人もたくさんいて、
発信してくれる人もたくさんいる。

教育法の在り方も、
学校の在り方も変わった。

いやー、良い時代になったじゃない!
と思っています。

というか、
どんな時代だったとしても、

今ある状況を嘆く人は嘆くし、
この状況を今後活かしてやろうと思う人は
そう考えるのかもしれません。


私のこのような「七転び八起き精神」は、
あの不登校時代があったからこそ
養われたのかもしれないし、
天性のものだったり
親の影響だったりもあるかもしれません。

わたしの両親も、
わたしの不登校を嘆くことはありませんでした。

受け入れてくれた両親には感謝しかないですし
そのお陰か、
わたしもスムーズに長男の不登校は受け入れられました。

「受け入れよう」なんて考える前に、
普通に受け入れていました。

むしろ「早くゆっくり休ませてあげたい」と
思うくらいでした。



それだけ恵まれていても、

不登校で死にたくなる気持ちとか、
自分が社会や家庭の荷物で
世の中の不適合者と思える心境も、

よーくよーーーくわかります。

両親がどれだけ受け入れてくれてても、
なんか自分がお荷物なんじゃないかって、
思っちゃうんですよね。

あれは両親の対応の問題ではなく、
本人の何かの投影かもしれません。

わたし達親にできるのは
「あなたがいてくれてうれしい、愛してる」
そう伝えることなのでしょう。



自分は世の中に不適合だとか、
家族のお荷物だと考えてしまうのは、

幼くて世界が狭いから、仕方ないことなんです。

子供にとっては学校が社会のようなものだし、

家にいてはいけない気分になるので
自分を家庭のお荷物と捉えてしまうことは
あると思います。

そんな心境のなか、
「学校行かないの?」なんて声掛けは最悪です。。



つらい気分を紛らわせるために
ゲームやテレビの世界に逃げることもあると思います。

わたし、それでいいと思っています。

逃げたいときは、
気が済むまで逃げたらいいんです。
これは、大人も同じ。

そして飽きるまで逃げたら、
次の世界に行こうとすると思うんです。

でもね、その一見「逃げ」であることが、
その先の人生でどんな役に立つか、
それもまたわからないですよ。

「逃げること」を知ってると、人は強くなれる。

逃げることを知ることは、
大切なことです。



わたし自身の話をすると、

わたしは成長する過程の中で
世の中の見聞の拡げ方を知って
強くなったのかもしれないし、

見聞を拡げることは
学ぶことに他ならないので、
私は昔から勉強が好きですし、
誰しもに、学ぶ欲求があると思っています。

知は力なりですし、
学校の勉強ができるよりも、
「地頭」が良くありたいと思います。



私はここ数日
何冊か本を読む中で、

わたしには不登校の経験があるけれど、

息子の不登校に関しては
「わたしはこうだったから」で接するのではなく、

生身のこの子を見て、
都度わたしなりに対処して行こう、

そのときは「わたしがこうだったから」
ではなく、

「この子がこの子自身の天才性を発揮するため」
という目的で対処していこう、

と、自分の心を新たにしています。

それが母親という仕事を通じて
わたしを成長させてくれると思うし、

この子自身を成長させてくれる、
とも思います。


この2月はコロナ第6波で、
兄弟揃って、ずっとお休みしています。

子供達はますますキラキラと
楽しそうにしているし、

わたしはこうして自分の考えも変化する中で
この先どんなことが起こるだろう?と
想像してはワクワクしています。

お母さんがこんな感じだから、
子供達もキラキラしているのかもしれません。




転んでもただでは起きない
「七転び八起き」の精神と、

逃げることもいつかの役に立つ、
気が済むまで逃げていいんだ、

という考え方があったから、
我が家は豊かになれたし、
私はあげまんになれたと思います。


極貧だったときにも

「わたしに限ってこんなはずはない」

「わたしに貧さは似合わない」

「これは何かの間違いで、
 私は本来、物質と精神の両面で豊かに生きる人だ」

「今たまたま貧乏してるだけで、
 これは私の本当の姿ではない」

そう思ってきました。


貧さゆえに「逃げること」もたくさんあって

頑張りが結果に現れなくても
その時期を粛々と過ごすことができました。


息子の不登校もまた、
わたしの精神を豊かにしてくれているので、
これがまた物質的な豊かさとして現れる
一因になるかもしれません。


身綺麗にする事もそうですが、
極貧を経験した私にとっては
日々の全てが豊かさの源泉で、

心がワクワク、ホクホクしているので、
豊かさがついてくるのだと思います。

お金を払うときも
入るときと同じくらい
ホクホクしている気がします。

「使えること」がうれしいからです。

実際、お金が入るうれしさって、
「こんなに使える可能性がある」という
「使えること」に対するうれしさの
前取りだと思います。

入る事も使える事も、うれしいことです。


使う喜びを知ってるから、
入る喜びがあります。

それはきっと、
子育てにも同じことが言えると思います。

何が起こっても、結局豊かです。

あげまんママは
それを知っているから、
子育てでも、何かあっても、余裕です。



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