「承認」と「愛」
私は家にいるとき、常に目の前に鏡がないと落ち着かない。
出先では自分が写る鏡やガラスを見る。
車の窓にさえ、自分を映してみる。
自意識過剰、ナルシスト。
そういわれる気がしてあまり人に言えずにいた。
自分でも、止めたいのにやめられない「癖」だった。
鏡がなくても、私は自分の姿を斜め上から、常に監視している。
コンビニでお菓子を買う時も、友達とおしゃべりをしている時も、一人で街中を歩いている時でさえも。
自分に対して常に検閲を行った。
性格の悪い言動や、不細工な表情をすると自分を責めた。
それが私の普通、だった。
疲れることはない。慣れているから。
私は常に「好い人」でありたかった。
私は私にも、うそをつく。
日記を書くとき、負の感情を隠してしまう。
誰に見られることがなくても体裁よく書いた。
私は私に対しても「好い人」でありたかった。
どうして?
本当の意味で、私は私を知らない。
常に他人からの評価が、自分を測る物差しだった。
街を歩いている時、何人に見られているかを気にした。
グループでいる時、自分が主人公でいないとみんなから嫌われている気がした。
『ヒステリー性性格障害』というらしい。
注目されないこと、関心を持たれないことに強い恐怖がある。
本当は、お洋服が好きなこともきれいな理由は、なかった。
着飾ることは、注目されるため、愛されるための、手段でしかない。
本当は、きれいな理由はどこにもなかった。
承認欲求が高いことが、昔からコンプレックスだった。
自分には承認されるものもないし、良く思われる要素もない。
自信は全くないのに、ただ、ただ、愛されたかった。
それは涙が出るほど私を苦しめた。
愛してくれる人がいなかったわけではなかった。
私がそれを、どうしても、受け止めきれなかった。
理由は最近、わかった。
自信がないから。
そんな簡単なことでさえも気づかないくらいに、
ただがむしゃらに。
「愛」に対してひねくれていた。
誰かをがむしゃらに愛することで、自分を隠していた。
誰かを愛することで愛されている、と錯覚していた。
悲しいことに、そんなことはないのに。
私はもう、だめかもしれない。
もう、ここにいては、いけないのかもしれない。
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