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悪になりきれない人と、善になりきれない自分と、社会の優しさ
って思った話。
私は基本的にいい人にはなれないし、もはやなろうともなれるとも思ってないので、悪人のままで生きてきゃいいんじゃね?と思ってる。典型的なダメ野郎なのだ。
ところがどっこい、周りには、他人に傷つけられて、同じ目に遭うまいと他人を遠ざけて線を引いてみてるのに、やっぱり善人レベルが高すぎて、悪になりきれず、あらやっぱり良い人だなという人がいる。
悪い意味でなく、すごいなと思う。だってそんなに傷つけられたのに、まだその人を許せるってすごい心が広いか受容力が凄まじいからだと思う。やられたらやり返す、倍返しを基本としている私からするとあり得ないのだ。特別な相手であれば、相手への思いの強さなどで変わってくるかもだけど、そんなに言うほど仲良くしなくてもいいんじゃない?って人に対しても、ちゃんと接している対応しているのを見ると、本当にすごいなと思う。
性善説とかの話だけではないと思う。
社会は意外と優しいという言葉を投げかけられた時、私はどうしても同意しきれなかった。
私がどうこうではなく、例えば母がシングルマザーとして子育てをしていたころ周囲から受けた偏見の目、貧困家庭の同級生のいじめ、レイプされた知人が社会に戻っていくまで周囲から受けられなかったサポート、事故で障害を負った知人が受けた差別。
社会は優しくない、少なくとも誰にでも平等に優しくはない、これは子供の頃から持ってる感情だからなのかもしれないし、それを払拭するだけの経験を自分自身がしてないだけかもしれない。でもやっぱり社会って優しくないと思う。
ここからは偏見。社会が優しいと思ってる人は、ある程度は恵まれている。恵まれてるって五体満足であり、色々あっても家族がいて、三食食べれて、家があって、仕事があって。死が常に身近じゃない。
だから私も恵まれてる。色々あるけど生活のコントロールをしながら生きている。だけど社会を優しいとは思わない。そういう人間なのだろう。そしてそんなふうに社会を見てるからか、善人と呼ばれるのは程遠いし、一生いい人になることはないと確信してる。ちょいワルでもワルでもいいのだ。表面的にいい人になるくらいなら、裏も表も悪が上等だ。
ここまで書いておいてなんだけど、善人が善人気取りだとかそういうのは特にない。でも上述のように恵まれてる人には、社会が個人にどうであるかってのはあんまり語ってほしくないなと思う。そして少なくとも私にそれを押し付けないでって思う。
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今いるこの国は、朝も昼も夕方もニワトリが鳴いてて、ニワトリ以外の鳥ちゃんたちのさえずりが一日中聞こえ、そして揺れるヤシの木や南国の大きな葉っぱの音がサワサワ言っている。ベッドに横になり、その音を一人で聞く土曜がすごーく良い。
海外にいると、ふとした時に、日本だとモヤモヤするだけのことに急に自分なりの答えが出たりするのが不思議である。仕事や生活がちょっと大変でも、得るものがやっぱりあるなぁと感じるのであった。