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話すことは外に出すこと。話させてくれてありがとう
ずーっと話さずにいたけど、勢いとノリでエイヤ!と話してみたら意外と大丈夫だったことは結構ある。
私はこのクソオッサンたちのエピソードを実は周囲に言えずにいた。そんなの勘違いだとか、あの人そんなことする?とか言われたら辛いからよ。こんなに嫌な思いしたのにそれが理解されなかったらしんどいでは済まされない。
でもこの国で知り合った友人に思い切って話してみた。そしたらキモーい!!!とただただ気持ち悪さを理解してくれて、それはヤバかったですね!不愉快でメンタルもやられますよ!と励ましてくれつつ、ちょっと笑ってもくれた。一番自分が言われたかったであろう言葉をかけてくれた。
話してよかった。それだけ。
ついでに話の流れで、今微妙な関係の男性としてCちゃんのことも話した。細かいことは伏せて。これも実生活では私は誰にも話しておらず、noteに書いてはいたものの、正直どこか感情が常に不完全燃焼だったのだと思う。
だから昨日友人に話してみて、すごい楽になった。あ、私話せるじゃん。話しても大丈夫じゃんとなった。
話してよかった。それだけ。
この友人は不思議とアドバイスはしない。女性特有のやたらにアドバイスしてきたり、分析して勝手な解釈をつけてきたり、こうしたらこうかもよーみたいなノリもなく、ただただ聞いてくれて、感情の部分で寄り添ってくれる。
書くことで整理する、それは間違いない。でも同時に生身の人間に向かって話すことって全然違うのだと思った。相手の反応もそうだけど、自分がどう言葉を選ぶのか、これは話せるけどこれは躊躇する、そういう自分の発見も多いと感じた。
文字にして残るのもまた振り返るのにはいいかもだけど、友人がちょいちょい私の話した単語を間違えて覚えてて(国名が微妙に間違ってたり、トントンをカンカンと言ってたり)それを見て、あ、人って意外と正確に物事を聞いてないなと良い意味で思った。話聞いてねーと思うよりも、そこって大して重要じゃなかったんだろうなと思えるし、でも肝心の感情の部分はちゃんと認識してて、それってすごいことだと思った。
話したことで私のモヤモヤと燻っていた感情たちはやっと外に出て、ちゃんと誰かに届いたし共有してもらうことができた。
この友人とは出会って半年も経ってないし、一度グループで旅行に行ってそれがきっかけで二人で数えるほどしかご飯に行ってないのに毎回6時間語り、毎回足りない。何かあるんだろうなと思った。話しても大丈夫って思わせてくれる人って貴重だ。だから感謝だなぁと思うのだ。
国が変わってしまうためしばらく会えなくなるけど、日本で必ず立ち飲みに行き、猫カフェと猫雑貨巡りしようと約束した。