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アーリースプリング


 いつもなら、定休日にはわたしのお城であるこの美容室の中でひとりお昼寝をする。このお店になってからずっと、わたしはそうしてきた。
 早春の風を頬に感じながら、お店の前で待つ。ガラスのドアの内側には飾り文字でクローズと書かれたプレートを掛けてある。美容科を出て十年。様々な経験と、幾つかのコンテストにおける実績と、お客様との出逢いやご縁で出せた、わたしの美容室。今年で二年目。古里の市内に開業して、はじめて父が髪を切りにやって来る。突然の連絡だった。別に疎遠というわけではなかったが、高校を卒業して古里を離れ、ひとり暮らしをはじめてからは父から連絡が来ることはめったになかったし、もっぱら、たま~にだけど、わたしからだったし、さらには髪を切ってほしいという話だったものだから、わたしは、いいけど、とだけ答え、父は店が休みの日にしてほしいとも言うので、だったらこの日の午後のこの時間ならと提案し、父は、わかった、と言って、それから続けて、頼む、と言うと、電話を切った。

 わたしは、思いを馳せる。美容科のある私立高校の、卒業式……
 わたしのいる県では、県庁所在地のその街の高校にしか美容科はなかったから、そこからかなり離れた場所に住むわたしは寮に入ることになった。父のひとつ年下の母は、幼い頃に病気で他界した。それからは父が男手ひとつで育ててくれた。父は水道設備工事の会社に勤めていて、仕事がら各地の工事現場に出張してそこにしばらく滞在して仕事をすることが時々あった。そんな時は、小学生の頃のわたしは父方の祖母の家に行って、そこで父が帰って来るまで過ごすというのが常だった。祖母の家は二軒隣だったから、わたしにとってはどことなく、校舎から渡り廊下をわたって体育館に遊びに行くようなそんな感覚に近かった。というのも、祖母の家は祖父が住職を務めているお寺で、そこには子供のわたしにとっては体育館のように広い畳の部屋があったからだった。わたしはよくそこで駆けずり回っては祖父の喉をゼーゼー言わせていた。遊び疲れると、わたしは広い畳の部屋の真ん中までわざわざ行き、そしてそこでくるまるようにして眠った。目覚めると、たいていは自宅にいることが多かった。ふしぎとそのタイミングで父が迎えに来て、抱っこして家に連れて帰ってくれていたからだった。父はお寺の跡を継ぐつもりで仏教系の大学に入り、その時に母と出逢い、結婚し、卒業して、さらには修行も終えていたが、母の死後に今の会社に就職した。
 わたしは特に美容師になりたいとは思っていなかった。何かになりたいと強く思う職業もこれといってはなかった。美容科への進学は父が強引に、ほぼ勝手に決めたようなものだった。反抗期がそれなりにあったから、どこかに厄介払いしたかったのだろうと思った。わたしもわたしでどこか別の世界に行ってみたいという好奇心もあったから、学校は県でいちばん賑やかな街にあったし、父が示したその進路に内心ではまさに渡りに船といった感じだったのだけれど、でも外見はとりあえずといった態度でもって従った。父はよく、手に職を持て、誰かに使われる人生を歩むな、というのが口癖だった。わたしはこの頃、ようやくその意味とありがたさを実感できるようになっていた。入学式には、わたしが遠いからと断っていたから誰も来なかったが、卒業式には、父は来てくれた。ふだん作業着姿が多い父のスーツ姿に、少しドキドキした。アルバムを開いてみれば、小学校の入学式は母とだけ、小学校の卒業式と中学校の入学式及び卒業式は祖母とだけだった。ということは、父は祖母にだけは頭を下げて頼んでいたのかもって、最近になってふいに気づいた。スーツ姿の父は格好は決まっていたけれど、髪はボサボサで、わたしは惜しいなあと残念がっていたあの想いに染まりながら、父が来るのを待っていた。
 やがて向こうから、あの日と同じように、スーツを着た父がやって来た。しかし髪は相変わらず、少し白髪混じりになった前髪を下ろしたボサボサのままだった。

 上着を脱ぎ、ネクタイを外した父が鏡の前の椅子に座っている。
 わたしは準備をして、父の後ろに立つ。
「中に入るとまたえらく広く感じるな」
「以前は倉庫だったから」
「それにしたって」
「これくらい広くないと落ち着かないのよ」
「ふ~ん」
「お仕事は休み?」
「ああ。有給取った」
「そうなんだ」
「うん」
「さてと、どうなさいますか?」
「まかせるよ」
「はい、かしこまりました」
 わたしは、ハサミを持つ。
「似合うだろうなって、ずっと思ってた髪型があるの」
「俺に?」
「うん」
「パーマは勘弁な」
「ううん、パーマじゃない」
「そうか、ならいい」
「パーマ、嫌い?」
「長い」
「時間が?」
「ああ」
「そっか」
 わたしは元サッカー選手のベッカム風の、サイドをフェードカットにしたベリーショートにしようとしている。
「ベッカム、知ってる?」
「レアルにいた?」
「そうそう」
「あの頃は深夜まで起きてて、よく観ていたな、サッカー」
「最近は観なくなったの?」
「起きていられない」
「録画すればいいじゃない」
「録画したスポーツほどつまらないものはないよ」
「そうなの?」
「結果見ちゃうから」
「見なきゃいいじゃない」
「俺は見ちゃうんだよ」
「ふ~ん」
 わたしは、ボサボサの髪をかなり短くカッティングしてゆく。
「スポーツ刈りか?」
「ベッカム風よ」
「それで言ったのか」
「そうそう」
「そうか」
「ダメ?」
「似合うか?」
「絶対。信じて」
「わかった」
 しばらく沈黙が続き、ハサミの音だけが聞こえていた。
「鮮やかだな」
「ありがとう」
「サイドと後ろ、刈り上げるね」
「ああ」
 わたしはバリカンを持ち、両サイドと、後ろを刈り上げてゆく。
「なあ」
 わたしはバリカンを止める。
「何、痛かった?」
「いや……聞きたいことがあってな」
「なんだろう」
「結婚しないのか?」
「結婚ねえ……」
「もうすぐ三十だろう」
「う~ん、縁がないのよね」
「話あるだろ、うちの息子とぜひ、みたいな」
「それがないのよね。スタッフの女のコたちにはあったみたいな話は聞いたことはあるんだけど」
「どういうことだよ、それ」
「わたしにもよくわかんない。一度、あなたどこか男の影があるわねって言われたことあったわ」
「実際いるからじゃないのか」
「いないのよ本当に、それが」
「それならいい。それでいい」
「何が?」
「たぶん、しあわせそうに見えたんだろ」
「え~そうなのかなあ」
 わたしはすかさずバリカンをスタートさせた。

 完成した髪型を父は鏡を覗き込むようにして見ている。
「どう? 前髪上げたほうがいいでしょ」
「ああ」
「バッチリじゃない」
「俺か、これ」
「ずっとこうすればいいのになあって思ってた髪型よ」
「いつから」
「高校の卒業式のあの日から」
「長い間、想ってたんだな」
「だから磨きに磨いた、この髪型の技術よ。この日のためにね」
「そっか」
「ねえねえ、スーツで決めてみせてよ」
 父は椅子から立ち上がり、ハンガーに上着と一緒にかけていたネクタイを取って付け、それから上着を着て、鏡に向かった。父はしばらく、自分の姿を眺めていた。
「よく似合う。モテるわ、これは」
「からかうなよ」
 父はまんざらでもないようだ。
「会計してくれ」
「要らないから」
「払うよ」
「もうじゅうぶんすぎるほど、払ってくれてるから」
「そうか」
「これから、どこか行くの?」
「墓参りでもしようかな」
「お母さんの?」
「うん」
「いちばんに見せたいのね」
「他に行くとこないだけだ」
「じゃあ、わたしも行く。クルマだよね、ちょっと待ってて」

 母のお墓は実家からは数キロ離れた場所にあった。それは父と祖父との距離をあらわしているようでもあった。わたしは父と祖父母の橋渡し役的存在だった。それぞれの情報を、わたしは真意を汲み取りながら、さりげなく伝えていた。まだ幼いわたしが寝ていると思って口にした、祖父の父に対する言葉がいつしかわたしをそうさせた。祖父はこう言った。何かのせいにしなければ、あいつは生きていけないのかもしれないと。
 父が手桶の中の水を柄杓で掬い、母の墓石にやわらかくそそぐ。母の墓石はいつ来てみても綺麗だった。古里に戻って来てからは、雨でなければ月命日には朝早くにお参りしていた。そのたびにお花も、お線香の新しい灰もなかったけれど、父の気配はどこか感じていた。わたしはお供えした生花は持って帰ってお店に飾った。来る途中でお花とお線香を買った。父がお花を、わたしがポシェットの中に入れてあるライターを使ってお線香を、手向けた。わたしたちはしゃがんで、母に向かって両手をあわせた。わたしは心の中で父がようやくお店に来てくれたことを報告した。手を下ろしたわたしが横を見ると、父はまだ母に語りかけているようだった。それから少しして、父が静かに、手を下ろした。わたしたちは立ち上がった。
「お父さん」
「ん?」
「やっと来てくれたね、お店」
「ああ」
「なんで、すぐに来てくれなかったの?」
「開いた頃に行ったことは何度かあった」
「お店の前まで?」
「ああ」
「入ればいいじゃない」
「あの格好でか」
「格好は関係ないわよ」
「いや、あんな洒落た店には、他のお客さんに迷惑だろ」
「だからスーツで来たの?」
「ああ」
「定休日よ」
「だからだよ」
「わかんない」
 父が、らしくない軽やかさで笑う。
「……なんか、あった?」
「何もないよ」
「そう……」
「風、かな?」
「風?」
「うん。最近の風、お前の卒業式を思い出してな」
「わたしの?」
「ああ」
「約束しただろ、あの日」
「約束?」
 わたしは必死で記憶をさぐる。
「約束なんかした?」
「した」
「どんな」
「言ったよ。最初は小さい店かもしれないけど、いつかおばあちゃんちのあの広い畳の部屋くらいに大きな店にするから、そしたら、切りに来てって」
「言った? わたし、そんなこと」
「覚えてないのか」
「全然」
「がんばったなって言ったら、泣きじゃくりながらそう言ったよ」
「ウソ」
「ったく、お前はそういうとこあったな」
「自分の言ったこと覚えてない?」
「よくあったよ。それで一度えらい目にあったことがあった。あの時、どれだけの人に頭を下げたことかわかりゃしない」
「そんなひどいことになったの?」
「まったく誰に似たんだか」
 また父が笑う。よく笑う、今日のお父さん。楽しそうに、笑ってる。
「ねえ、お母さんになんて話しかけてたの?」
「娘が君の夢を叶えて、そしていい美容師になったって」
「美容師、お母さんの夢だったの?」
「ああ。高三の時に病気になって、卒業はできたが長く入院して、ようやく治して、その頃に俺と出逢って、お前を身籠って、育てて、ある美容室に行くようになってから美容師になりたいって言い出して、それなら学校に行くにはどうすればいいか話してた、そんな、時だった……元々カラダ弱かったから、俺が、殺したようなもんだ」
 わたしは黙る。
「今日、なんとなくわかったよ」
「何が?」
「あいつがどうして美容師になりたかったか」
「……なんで?」
「人を元気にする仕事だよ」
「うん。わたしも元気になれるの」
「うん」
「お母さん、ずっとずっと、お父さんといたかったのね」
 早春のやわらかな風が、そっとお線香の煙を揺らした。
「その髪型、ひと月ごとに来ないとダメだから、休みの日に帰って来てね」
「なんだ、それが狙いか」
 喉の奥が詰まった声で、父がそう言う。わたしは泣き出しながら笑う。
「なあ……」
「ん?」
 わたしはハンカチで涙を拭う。
「坊主もやってくれんのか?」
「そりゃもちろん」
「そうか」
「えっ、気に入らなかったの?」
「そうじゃない」
「なんだ、よかった」
「会社、辞めるよ」
「辞めて、どうするの?」
「だから」
 と父が髪の毛をバリカンで剃る仕草をする。
「ああ、そういうことね」
「単なる責任転嫁の、長い反抗期だったけどな」
「それじゃあわたしのなんか、かわいいもんだったでしょ」
「そうだな」
 ふと、近くの竹林が風にざわめいて、母が笑っているように聞こえた。
「お母さんが笑ってるわ」
「ああ」
 わたしは父の満面の笑みを、はじめて見たような気がした。


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