「訂正可能性の哲学」を読んだ直後の感想と考えたこと

今日読み終わった。せっかくのネタなので読み終わってすぐのとりあえずの感想を書いておこう。

「ルソーってそういう人だったんだ(親近感)」というのがまず一番の感想。ヴォルマールやばいキャラだな。『新エロイーズ』ちょっと読んでみたいな。

全体的な内容としては概ね同意というか、自分が考えてきていたこととかなり相性が良かったというか、うんうんそうそうそう表現するかーみたいな感じで読んだ。ただルソーの著作なんかちょっとも読んだことの無いド素人の自分がこの本に書いてあったルソーについての情報をもとに勝手なことを言うと、ルソーは『新エロイーズ』をそんな明確な意図をもって書いたんじゃなくて、それは「自分で自分に処方する薬」としての表現(芸術)だったんじゃないかなと感覚的に思った。ルソー自身に必要だったから書いたんだと思う。内容的にそんな気がした。

訂正可能性。私は一応理系なので、反証可能性という言葉は身近に感じている。高校の物理の授業で先生が言っていた。先生は「これが定義とかこれで解決みたいなことではないけれど」みたいな前置きをしていたと思う。「一応科学というものが宗教と違うと言える特徴として、「反証可能性」というのがある。少なくとも反証可能性がないものについては、科学とは言えない」という話だったと思う。どんなにそれらしい理論、すばらしくいろんな事象を説明できるような理論でも、それに対する反証が出てくれば覆される。その可能性は常に存在している。科学はいつも「今のところ、一応これが一番確からしい」という態度なのだ(考えてみたら他の場面でその話を聞いたことがほとんどない。もしかしたら理系でもあまり馴染のない人は結構いるのか?)。初め本のタイトルを見て、反証可能性とどう違うのかな?と思った。読んでみてわかったことは、思ったより違うということだ。でも反証可能性を心に留めておくスタンスは、「今のところ、一応これが一番確からしい」の気持ちとちょっと似たところはあると思った。実際はかなり違う。でも、『「そうじゃない可能性」を前提にしている』みたいな心が似ていると思う。

「全てをきれいに解決する最高の方法がどこかにある」というのは、間違ってても合っててもどっちでもいい。ただ、その方法は、あったとしても多分すぐには見つからない。だから、当面は見つからないとして、できるだけマシな状態を維持するためにはどうしたらいいか、を考える必要があるのだと私は思っている。人工知能民主主義だっけ。そういうのは、直感的にダメそうとは思っていたんだけど、この本には理由をちゃんと考えて書いてくれてあった。すごい。

人間の幸せって不条理なんだよな。「最高の方法」は不条理にも適応できないといけない。最適解とか、収束点とかいうものはなくて、ずっとその時その時の社会を構成する個人個人に向き合い続けないといけない。AIが力になってくれるとしたら、今いる個人個人に必要な個別対応を、今ある有限の資源でできるだけ効率よく解決するやり方と程度を考えるみたいなところなんじゃないだろうか。ちょっと前の記事でかいた、規則を明確にしきらないことや、微妙な運用ができる余地を残しておくことの重要性みたいなのとも関連してくるのかな。

「一見数値的に不条理・合理的でない幸せ」で真っ先に思い浮かんだのが妊娠出産子育てだった。妊娠出産は心身のダメージが大きく後遺症もある大変な事象ではあるけれど、仮に人工子宮が安価に利用できるようになったとしても、自分の腹で自分の子供を育て産み落としたいという女は多分いなくはならない。無痛分娩が安価で安全に利用できるようになっても、産みの痛みを経験してみたいという女も多分いなくはならない。子育て中の親の幸福度が下がるみたいな話があるけれど、自分の命より大事なものと認識できる存在がかなりの高確率でこの世に生じること、その存在を生かすことの充実感(?)みたいなものは、多分幸福度の中に計算されてはいないのではないか。
(妊娠出産という経験は、それくらい、経過と結果が良好であれば、確かに意義を感じられる体験ではある。と私は思う。心身のストレスとか不安(ちょっとした自分や他人の不注意が子供の障碍に繋がったりするみたいな)はでかすぎるが、すげえ面白いし自己実現?達成感?みたいな感覚があり得るのも事実。赤ん坊は腹の中にいるときからちゃんと個性があるので、育児はそこからもう始まっているというのも事実。こういうのも数値化されればこれは不条理じゃないということになるんだろうか)
(実際は人工子宮がそこまで安価になるということは考えにくいので、一般的には人間の腹を使うことはなくならないと思う)
(出産の痛みの感じ方は個人差がめちゃめちゃでかい上に、同じ人でも毎回違うものなので、途中でギブアップできる体勢が整う、というのが理想だと思っている。ご近所の人から、三人目の出産時に陣痛そこまで痛くなくてなんか物足りなくてむしろ泣いたという話をきいたことがある。計器を見ればめちゃめちゃ痛いはずの状態でも、そうなのだ。ちなみに出産は指切断と比べられることがあるが、私の初産に立ち会った経験と実際に指を切断した経験がある旦那によれば、出産の方が痛そうだと思うと言っていた。痛みの感じ方は多分ホルモンの量とかがかなり関係していて、同じ物理刺激で同じ感じ方をするとは限らず、その人と時と場合に依るのだ)

えーと、なんだっけ。訂正可能性。そうそう。人間はそれなりに皆アホで感情的で非論理的というのを前提にするべきだと思っている。だからもし論理的合理的に考えればありえないような選択肢も、絶対に主張する人は存在する。そしてそれは存在していていいのだと思う。宗教なんかはわかりやすい。あれは平気で人間に人権を侵害させる。でもそれを信じている人はたくさんいる。しかしいろんな主張をする人がたくさんいれば、それはただの主張の一つに成り下がる。みんなが静かにしているのを前提としてしまうと、でかい声の存在感が上がってしまって、それはそれだけで権威性を帯びてきかねない。みんなうるさくしているべきなんだ。自分の利益や感情のために、それぞれ主張すればいい。(これ、静かにしていたい人の利益が守られないな。。。)

この本を読んで頭に浮かんだイメージは、たくさんのロープだった。そのロープは芯のあるタイプのロープだ。芯は生き物としての人間の活動かな。外側は社会的な活動かな。外側も細い芯なしのヒモで編まれてできている。たくさんのロープがそれぞれ絡みあったり、束になったりして、さらにその外側にあるたくさんのロープと絡みあったり束になったりしていく。ロープは途中で切れるが、ロープの外側部分のヒモはつながっていたりもする。ある太いロープの束は遡れば全然違う束と同じ束を構成する細い束だったかもしれない。現在を構成しているロープの先端と、遡ったところを構成しているロープは全然違う種類のロープかもしれない。ロープの先端の外側の色が変わると、そのロープの束の流れ全体の色も変化し得る。その大量のロープを引きで見てみれば、ただのロープの束か。人工知能民主主義的なロープの制御をすることは、どういう状態が理想になるんだろう。理想はわからないけど現実的にはロープの束同士の干渉を妨げて、ロープの強度を下げちゃう感じになりそうとか、ロープの中規模の束の組織を阻害しそうとか、ロープの芯がむき出しになったりしそうとか、そうなっちゃうんじゃないかなみたいなイメージがでてきた。外側のヒモのふるまいの逸脱による他のヒモとの干渉の阻害、ということかな。編まれ方に不備があった場合にロープ達が頑張ってもそれを直せないということ?まあ例えとしてはあんまりいい例えではなさそうかな。

再帰性みたいなイメージが何度もでてきたと思う。自己ツッコミとか訂正可能性とか。セルフリファレンスエンジンって昔読んだな。

眠くなってきた。とにかく書いたぞ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?