丹生都比売神社で、稚日女、大宜都比売、高野御子と阿加流姫の間に何か線が見えてきた気がするので、ちょっと目を新羅に向けようと思う。
もしもそれが卑弥呼の時代の最後に重なるとするならば、その時代は新羅はまだない。
魏志韓伝によれば、その頃新羅の地域にあったのは辰韓12国で、そのうちの斯盧国が後の新羅となる。
新羅の成立は4世紀後半、日本で言えば応神天皇の頃と重なる。
脱解王
脱解は新羅の第四代の王で、その出自は倭人という。
彼が若いとき、吉兆の地を見つけそこに住む瓠公という人物を騙し屋敷を自分のものにした。
やがて彼は王に気に入られ王の娘を娶って王となるが、王となった彼に、騙されて家屋敷を奪われた瓠公が仕えることになる。
瓠公もまた倭人だ。
そして、赫居世その人であるという説もある。
赫居世は王となったその地が須佐之男の降った新羅の曾尸茂梨(ソシモリ、シは助詞なのでソモリ)によく似た名の徐伐(ソボル)であることから、赫居世その人が須佐之男ということもあり得る。
脱解の生まれた倭国の東北一千里にある多婆那国は丹波国とされる。
脱解は、おそらく当時の発音で、「タケ」と読んだと思われる。
これが女性であればどんぴしゃで見つけたと言いたいところなのだが残念ながら男性だ。
彼は海に流されている。
日本の神話には海に流された二人の赤子がいる。
蛭子と淡島だ。
蛭子は後に事代主とされるようになり、淡島は少彦名とされるようになる。
気になるのは、多婆那国の王が娶ったのは女国の王女と言うところだ。
竹野姫とその父建由碁理、母葛城諸見己姫。葛城諸見己姫が稚日女ならば、邪馬台国の王女となる。
兄弟で同じ名を付けることはある。
系図には竹野彦は居ない。
流されたから居ないのか。
稚日女は尾張の建由碁理に嫁ぐはずが、須佐之男に陵辱されて、脱解が生まれたのか。
阿加流姫は第二子か。阿加流姫を産んだときに、稚日女は亡くなったのか。だ
そんな想像が浮かぶ。
偶然にしては、符合するからだ。
金閼智
金閼智については事績はない。
ただ、彼の子孫が後の新羅王家となる。
彼自身は脱解と瓠公の養い子だ。
鶏林の鶏の鳴く木で見つかる。
この金閼智に呼応する伝説がかつての金官伽耶に残っている。
仙見王子
ときは第二代居登王の時。
脱解が斯廬に辿り着いたのが金官伽耶初代首露王の時なので時間的にも呼応する。
金官伽耶第二代の王居登王には仙見という名の王子があった。ある時仙見王子は神女に連れられ雲に乗って旅立ってしまった。居登王は川にある石の島の岩に上り、仙見王子を呼ぶ絵を刻んだ。故にこの岩を招仙台という。仙見王子は倭国に渡り倭国に金官伽耶の属国を作ったという。
金官伽耶の金官とは王家の姓金氏に由来する。
延烏郎と細烏女
こちらは天日槍と阿加流姫に呼応する新羅の伝説だ。阿達羅王の時と言うことで西暦158年7月13日の日蝕と合わせられる。
ところで辰韓は漢書には記載がなく、朝鮮三国の中で最も古い歴史を持つ高句麗も二世紀初頭まで支配権を朝鮮半島まで伸ばせなかった。
新羅で実在性が確かな王は第17代奈勿尼師今からだが、この王の在位が西暦356年からで、阿達羅王は奈勿尼師今の二世代前の王となる。
また日蝕は158年の後に起こるのが所謂岩戸日蝕の247年3月24日夕刻と248年9月4日早朝のものだ。247年の日蝕は新羅と伽耶ならば観測できる。
247年の欠けながら沈みゆく太陽に恐怖し、248年の欠けた状態から回復しながら上りゆく太陽に安堵した、その体験の神話ではないかと思うがどうだろうか。
この後日蝕は248年の日蝕の後は273年、341年と続く。2世代前となると300年前後が統治年代となるだろうが、その時期に日蝕はない。
阿達羅王は、延烏郎の話の15年後に邪馬台国の女王卑弥呼に使者を送った記録が有り、それを考慮すると、247年でも難しいが、これが女王台与だとすれば、247年または248年が該当する。
延烏郎と細烏女が実在とすれば、この出来事は天日槍と阿加流姫の時代と重なるのだがどうだろうか。