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海の向こうの神話

丹生都比売神社で、稚日女、大宜都比売、高野御子と阿加流姫の間に何か線が見えてきた気がするので、ちょっと目を新羅に向けようと思う。

もしもそれが卑弥呼の時代の最後に重なるとするならば、その時代は新羅はまだない。
魏志韓伝によれば、その頃新羅の地域にあったのは辰韓12国で、そのうちの斯盧国が後の新羅となる。
新羅の成立は4世紀後半、日本で言えば応神天皇の頃と重なる。


脱解王

脱解は新羅の第四代の王で、その出自は倭人という。
彼が若いとき、吉兆の地を見つけそこに住む瓠公という人物を騙し屋敷を自分のものにした。
やがて彼は王に気に入られ王の娘を娶って王となるが、王となった彼に、騙されて家屋敷を奪われた瓠公が仕えることになる。
瓠公もまた倭人だ。
そして、赫居世その人であるという説もある。
赫居世は王となったその地が須佐之男の降った新羅の曾尸茂梨(ソシモリ、シは助詞なのでソモリ)によく似た名の徐伐(ソボル)であることから、赫居世その人が須佐之男ということもあり得る。

第四代 脱解尼師今(在位五七一八〇)

 脱解尼師今が即位した。脱解が王位に就いたとき、その年は六十二歳であった。(脱解の)姓は昔氏で、王妃は阿孝夫人 である。脱解はむかし多婆那国で 生れた。その国は倭国の東北一千里のところにある。むかしその国王が女国の王女を娶って妻とし、妊娠して七年たって、大卵を生んだ。王は(次のように)言った。
「人でありながら卵を生むというのは不祥なことです。(その卵を)捨ててしまいなさい。 」
 (しかし、)王妃は(捨てるに)忍びず、絹の布で卵を包んで、宝物とともに箱の中にいれ、 海にうかべ、(流れに)その行先をまかせた。最初に金官国の海岸に流れ着いたが、金官国の人たちはこれを怪しんで、とりあげようとしなかった。〔※三国遺事では首露王がとりあげようとしたことが記されている〕
 そこでまた(海にうかんで)辰韓の阿珍浦(慶北月城郡陽南面下西里)の海岸に流れ着いた。ちょうどそのときが始祖赫居世の在位三十九年であった。このとき海辺に住んでいた老婆が、網で(箱を)海岸に引きよせ、その箱をあけて見ると、一人の少年がいた。その老婆がこの子をひきとって養ったところ、壮年になるにしたがい、身長九尺にもなり、その風格は神のように秀でて明朗で、 その知識は人々にぬきんでていた。ある人が、
「この子供の姓氏はわからない。最初、箱が来たとき、一羽の鵲が飛んできて、鳴きながらこの箱にしたがっていた。そこで、鵲の字を省略して、昔の字をもって氏の名とするのがよかろう。また、はいっていた箱をひらいて(子供を)出したのであるから、脱解と名づけるのがよかろう。」
 といった。脱解ははじめ魚つりをしてその母を握っていたが、すこしも怠ける様子がなかっ た 。そこで母が(次のように)いった。
「おまえは常人ではありません。その骨相がとくに異なっている。どうか学問をして功名をたててください。 」
 そこで、(脱解は)学問に専念し、地理にも精通した。(あるとき彼は)楊山(慶州市の南山)の麓の瓠公の宅を望み見て、(そこを) 吉兆の地と考え、相手をだましてその土地をとりあげて、そこに住んだ。その地がのちに月城(慶州市仁旺里)となった。南解王五年になって、(王は)彼が賢者であることを聞き、王女を彼の妻とした。
(後略)

三国史記 1 平凡社 東洋文庫 (金 富軾/著) より
〔〕は私の注釈

脱解の生まれた倭国の東北一千里にある多婆那国は丹波国とされる。

脱解は、おそらく当時の発音で、「タケ」と読んだと思われる。

これが女性であればどんぴしゃで見つけたと言いたいところなのだが残念ながら男性だ。

彼は海に流されている。
日本の神話には海に流された二人の赤子がいる。
蛭子と淡島だ。
蛭子は後に事代主とされるようになり、淡島は少彦名とされるようになる。

気になるのは、多婆那国の王が娶ったのは女国の王女と言うところだ。

竹野姫とその父建由碁理、母葛城諸見己姫。葛城諸見己姫が稚日女ならば、邪馬台国の王女となる。
兄弟で同じ名を付けることはある。
系図には竹野彦は居ない。
流されたから居ないのか。
稚日女は尾張の建由碁理に嫁ぐはずが、須佐之男に陵辱されて、脱解が生まれたのか。
阿加流姫は第二子か。阿加流姫を産んだときに、稚日女は亡くなったのか。だ
そんな想像が浮かぶ。
偶然にしては、符合するからだ。

金閼智

金閼智については事績はない。
ただ、彼の子孫が後の新羅王家となる。
彼自身は脱解と瓠公の養い子だ。

金閼智 脱解王代

永平(後漢の明帝の年号) 三年庚申八月四日、瓠公が夜、月城の西里をとおっていると、大きい光が始林(あるいは鶏林ともいう)の中からさすのを見た。紫色の雲が空から地面に垂れさがっており、雲の中に黄金の櫃が木の枝に掛っていて、光がそこから発し、また白い鶏が木の下で恐いていたので、このことを王に申しあげた。王がその林にお出ましになり櫃をあけて見ると、中にひとりの男の児が横になっていたが、すっと起きあがった。あたかも赫居世の故事そっくりなので、その言葉にちなんで名前を閼智とつけた。閼智とは朝鮮語で子供のことである〔赫居世も閼智と名付けられるが、意味は輝く子どもとある〕。子供を抱いて宫殿にかえってくると、鳥や獣もいっしょについ て来ながら喜んで飛びはねたりした。王が吉日を選んで太子に立てたが、後になって婆娑に譲り王位にはつかなかっ た。金の櫃から出たというので姓を金氏とした。閼智は熱漢を生み、漢は阿都を生み、都は首留を生み、留は郁部を生み、部は倶道(あるいは仇刀)を生み、道は未鄒を生み鄒が王位にのぼった。新羅の金氏は閼智からはじまっている。

完訳 三国遺事 明石書店(一然/著)
〔〕内は私の注釈

鶏林の鶏の鳴く木で見つかる。
この金閼智に呼応する伝説がかつての金官伽耶に残っている。

仙見王子

ときは第二代居登王の時。
脱解が斯廬に辿り着いたのが金官伽耶初代首露王の時なので時間的にも呼応する。

金官伽耶第二代の王居登王には仙見という名の王子があった。ある時仙見王子は神女に連れられ雲に乗って旅立ってしまった。居登王は川にある石の島の岩に上り、仙見王子を呼ぶ絵を刻んだ。故にこの岩を招仙台という。仙見王子は倭国に渡り倭国に金官伽耶の属国を作ったという。

金官伽耶の金官とは王家の姓金氏に由来する。

延烏郎と細烏女

こちらは天日槍と阿加流姫に呼応する新羅の伝説だ。阿達羅王の時と言うことで西暦158年7月13日の日蝕と合わせられる。

 第八代、阿達羅王の即位四年丁酉(一五七年)に、東海のほとりで、延烏郎と細烏女という二人の夫婦が住んでいた。 ある日、延烏が海へ行って藻を採っていると、急に一つの岩が(彼をのせて) 日本へ運んでいってしまった。そこの国の人びとが見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった。
 細烏は、夫が帰ってこないのを変に思い、(海辺へ)行ってさがしてみると、夫が脱いでおいた履物が岩の上にあった。それで彼女もその岩の上にあがると、岩がまた前と同じように動いて運んで行くのであった。そこの国の人たちが彼女を見て驚き、王に申しあげたので、(ようやく)夫婦が再会し、(彼女は)貴妃に定められた。
 このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象を司る役人)は、「太陽と月の精が、わが国にあったのに、日本にいってしまったため、このような異変がおこったのです」と言上した。(そこで)王は使者を日本にやって、二人をさがしたところ、延烏が、「私がこの国にきたのは、天がそうさせたからである。だから(今さら)もどれようか。だが、私の妃が織った細綃(上等のきぎぬ)がある。これをもっていって天に祭ればよかろう」といって、その絹をくれた。使者が帰ってきて申しあげ、その言葉どおり祭ると、いかにも太陽と月(の光)がもとにも どった。その絹を御庫にしまっておいて国宝とし、その倉庫を貴妃庫と呼び、祭天した場所を迎日県、または都祈野と名づけた。

完訳 三国遺事 明石書店(一然/著)

ところで辰韓は漢書には記載がなく、朝鮮三国の中で最も古い歴史を持つ高句麗も二世紀初頭まで支配権を朝鮮半島まで伸ばせなかった。
新羅で実在性が確かな王は第17代奈勿尼師今からだが、この王の在位が西暦356年からで、阿達羅王は奈勿尼師今の二世代前の王となる。

また日蝕は158年の後に起こるのが所謂岩戸日蝕の247年3月24日夕刻と248年9月4日早朝のものだ。247年の日蝕は新羅と伽耶ならば観測できる。
247年の欠けながら沈みゆく太陽に恐怖し、248年の欠けた状態から回復しながら上りゆく太陽に安堵した、その体験の神話ではないかと思うがどうだろうか。
この後日蝕は248年の日蝕の後は273年、341年と続く。2世代前となると300年前後が統治年代となるだろうが、その時期に日蝕はない。
阿達羅王は、延烏郎の話の15年後に邪馬台国の女王卑弥呼に使者を送った記録が有り、それを考慮すると、247年でも難しいが、これが女王台与だとすれば、247年または248年が該当する。

延烏郎と細烏女が実在とすれば、この出来事は天日槍と阿加流姫の時代と重なるのだがどうだろうか。


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