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皇子に人望がなさすぎて
神武東征は、魏志倭人伝の、国中が服さなかった男王を討つ旅だろうという推定をしたのは少し前になるが、その後の話をしよう。
その男王は、記紀の神武天皇の父、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊だろうという推定もした。
そして彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は天忍穂耳だろうとも言った。
全て年代からの推定だ。
記紀の系図がおかしいのは、書いていけばわかるのだが、それでも何もかもが空想ではないだろう。
いつの時代も我が国は天皇家から祭祀を外さなかった。
今に至るまで、万世一系とは言わないまでも、そして連綿と男系が続いたとも言えないまでも(記紀だけ見ても応神天皇の時と継体天皇の時はかなりあやしい)、この家系を敬い続けたからには相応の理由があったろうからだ。
神武東征前夜
ときは西暦247年。長く倭国を支配した女王が崩御した。
おりしも春3月、西の地平、西の水平に沈みゆく巨大な太陽が欠けながら消えていった。急速に闇に包まれる世界。
世界の終わりにも思えただろう。
女王の死に際し、長く殯を行うのがしきたりだ。
しかしその殯の最中に、王が立った。
女王の一人息子、忍骨があとを継ぐというのだ。
しかし人々は、いかに偉大なる女王の息子といえど、彼には付いていけなかった。上に立つ者として、感情的で弱腰の彼は人望がなかったのだ。
忍骨に継がせるくらいならば、まだ若い、女王にも可愛がられていた忍骨の子、狭野の方が良いだろうと思えた。(狭野の野は男性敬称の根、狭は小さいという意味なので、小公子のような呼び名ではないかと思われる)
群臣らが自分に従わなそうという空気を察した忍骨は無理矢理に王位に就く。
そしてかねてより計画していた遷都を実行した。
臣らの影響力の強い九州を離れて、外国からの守りのより堅い大和の地だ。
それに仰天したのは人々だ。
狭野もまた驚いた。
国が割れた。群臣たちは父に従わぬ者の方が多かった。請われて狭野は父を討つことになる。
国をまとめ上げなければならなかった。
父を討つ旅に出る前に、亡き女王に詣でた。
記紀では、東に良き地がある、と突然言い出して、兄三人と共に旅立つ。
阿加流姫来訪
朝鮮半島慶州月城。おそらくそこが阿加流姫の住んでいた場所だ。
そこまで報せが届く時間、そこから旅立ち女王の殯の場所に行き着くまでの時間を考えると、阿加流姫がやってきたのは狭野の出立よりも遅かったのではないだろうか。
鈿女の舞も天日鷲の竪琴も、死者に捧げる鎮魂の歌舞だ。
偉大なる女王の後継の巫女姫。人々が阿加流姫を見た時に思ったのはまずそれだろう。
ただあまりにも幼かった。
神武天皇が長臑彦を倒すのに4年がかかっている。これがそのまま卑弥呼の死から台与の即位までと考えると、台与の即位の時の年齢が13歳。
そこからそのまま4年を引くと9歳となる。男王が立つまでの期間も含めればもう少しかかったろう。
さらに、中国も日本も数えで年齢を数える。
6~8歳がこの時の阿加流姫の年齢だ。
ここで胸鉏姫の伝説を貼ろう。
Wikipediaに年齢も書いてあるので丁度良い。
神代の昔、「波子の浦」に見目美わしき六・七歳の童女、「ハコブネ」に乗って漂着した。近くに住む老夫婦、子供のないまゝいたく喜んでこの童女を慈しみ育てゝいたところ、この娘十二・三歳のある夜、「出雲の国」に異変あるを知って直ちに帰国せんと思い立ち……
あれ、これもしかして妄想じゃなくて本当なんじゃ!?
と思えて来た人いる?
阿加流姫はしかし、大和に男王を討ちには行かなかったということになる。
大麻比古が出雲に連れて行ったのだろう。
石見の伝説を信じるならば、石見にまず留まり、それから出雲危急の知らせを聞いて、助けに向かった。
姉、大屋津姫については、早くに亡くなったとしかわからない。
姉ではなく、母稚日女のことかもしれない。
天豊足柄姫の願いで八束水臣津野が大蛇を退治した話と、八岐大蛇が同じ話ならば、妻となった稲田姫に対応する天豊足柄姫もまた妻となり、稚日女であった可能性が出て来る。
天香語山の旅路
天香語山は系図では天火明の子となっている。しかしその子の天村雲の妻が伊加里姫であり、彼女が母の屋乎止女(やおとめ)、高照光姫、市杵島姫――全て天火明の妻天道日女の別名だ――と同一人物なのだから系図は大幅に崩れる。
天香語山は誰なのか。
記紀では高倉下として現れる。高倉下は先代旧事本紀の武位起とも言う。武位起は五十猛とも言う。五十猛は、脱解か、もしくは兄妹のように育った天日槍だろうか。武位起は天村雲の別名でもある。
天村雲は草薙剣の別名でもあるが、草薙剣を追っていくならば、天香語山は天日槍に確定する。
天火明から天村雲まで全て同一人物だ。
いや、天火明は、アカリ、阿加流姫その人を指す可能性もある。磯砂山に消えた天火明が豊受女神なのかもしれない。
とすれば、神武天皇と同じように東征に向かい、出雲から播磨を経由して難波に至った天火明の経路が阿加流姫の経路かもしれない。
天香語山は宇佐で天火明と別れた後、別のルートをたどり、紀ノ川のあたりまで行く。
ここで神武天皇、狭野と出会い、彼を助けるのだが、紀ノ川のあたりに狭野がたどり着くのは4年後なので、それまでの天香語山の消息が知れない。
天日槍であるのだから、天日槍の伝説を追えば、淡路、近江、播磨、但馬などを旅している。
尾張氏の力の強い土地なので、狭野が物部氏の力を借りたように、天香語山は尾張氏の力を借りようとしたのかもしれない。
幼い阿加流姫とは違い、彼は時代の趨勢がわかっていただろう。阿加流姫が卑弥呼の後継者になるだろうこともわかっていたかもしれない。
十握剣と天叢雲剣
十握剣が最初に出て来るのは伊邪那岐の佩剣だ。
同じ名前で幾つも記紀には出て来る。
そのことから普通名詞だとされているが、別名を追うと全て同じ剣と思われる。
伊邪那美が迦具土を産んで亡くなったとき、伊邪那岐は怒りにまかせて佩剣で迦具土を斬った。
この佩は十握剣だが、別名を天之尾羽張、伊都之尾羽張とも言う。
次に須佐之男の剣として出て来る。
記紀では暴れ者のどうしようもない子どもに見える須佐之男は、出雲の熊野大社では「伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」という。伊邪那岐の愛する子と神名に入っている。
愛剣を継がせたとしても不思議はない。
この剣で須佐之男は八岐大蛇を倒す。
この故事から、天羽々斬と呼ばれるようになる。羽々とは蛇のことだ。
また蛇之韓鋤(おろちのからさい)とも呼ばれる。韓鋤という名前が不思議だが、後の布都剣の形状で納得出来るようになる。
次に出て来るのが阿遅鋤高日子根だ。天稚彦の葬儀の時に十握剣で殯屋を打ち壊した。この県は神度剣とも呼ばれる。神度は神門、出雲西部、宍道湖から出雲大社にかけての平地の古い地名だ。
または大量(おおはかり)とも言う。はかりはハハキリの転訛だろう。
最後が布都御魂だ。
国譲りを迫る建御雷が持っている。この剣は高倉下を通して神武天皇に渡され、石上神宮に奉納される。
石上神宮は、元社が吉備と播磨の間の山奥にある。
その山の頂上に大きな石があり、その石の上にこの剣が納められていたという。
布都御魂の形状は内反りの内刃、つまり鎌の刃の部分のような形をしている。
また八岐大蛇を切ったため、先が欠けている。
この形は牛に引かせる鋤の金具と同じものだ。
この中の唐犂(からすき)がそれだ。
その形、名称から、元は農具だったかもしれない。唐犂は牛に牽かせるもので、人の力では重くて動かない。
韓または燕(三国時代まで日本は中国の一地方である燕に属するとされ、交流があった)から農具を輸入したところ重くて動かせず、打ち直して剣にしたのかもしれない。
形状故、もしくは本当に農具だった故に鋤と呼ばれていたならば、阿遅鋤高日子根や胸鉏姫のスキはこの剣な由来する可能性があるが、もう一人鋤の名を持つ人物が居る。
狭野の兄、稲飯だ。
稲飯は熊野の沖で暴風雨に苦しめられたとき自ら母の国である海に入り鋤持神になったという。そして新羅の王になったという。
その時にもう一人の狭野の兄三毛入野もまた海に入って常世の国に去った。
その後入れ替わりに高倉下が布都御魂を持って狭野の前に現れる。