そのへんのOLのカジュアルお遍路のすすめ 3 冒険編(香川県②)
ところで2024年10月現在、いまだに私はCOVID-19罹患歴なしのままだ。
なお、母は、今年祖母の一周忌で故郷の山形に帰ったときに、山形に住んでいる私の従兄弟にうつされて、罹患歴1回になった。
あの頃の差別を考えると皮肉な状況だなあ。
3日目 高松
第83番 一宮寺
神様と人がもっと近かった頃、国を挙げて神様に奉斎をしていた。地方には地方の役所が、その土地の有力な神様に奉祝した。
その有力な神様――その頃に神様の社が築かれて、神社となった――を一の宮と言う。諸国に一の宮はあり、ここ讃岐の一の宮は田村神社という。水の神様だが、祀られているのは倭迹迹日百襲姫とその周辺の人々になる。
倭迹迹日百襲姫は、古事記や日本書紀に出て来る昔の巫女姫で、記録の中の卑弥呼ではないかと言われている人物だが、幼い頃はここ讃岐に居たらしい。
瀬戸内海を挟んだお向かいは吉備だ。
兄弟に吉備津彦と呼ばれる武人が居て、この人が桃太郎のモデルであると言う説が強い。吉備で温羅と言う鬼を退治した。吉備津彦のことも考えると、奈良の人であるより、讃岐の人である方が自然だ。
この田村神社に添うように一宮寺はある。
田村神社を管理していた寺であるという。
古き日本の神は仏の仮の姿であるという説が現れ、寺と神社が一体となったのだ。平安時代から明治になるまで、大きな神社は寺を伴っていた。
琴電の一宮駅からてくてくと10分ばかり、静かな住宅街を歩いて行くことになる。
一の宮と言ったら相当に格が高いのだけれど、そんな大きな神社があるようには見えない街並みだ。
着いた!
が、着いたのは田村神社であって、一宮寺は参道の脇から奥に這入っていく。
田村神社はさすが一宮、立派な神社だった。
昔は神社と寺は一体だったので田村神社(の境内にあった一宮寺)が八十八カ所の札所だったらしい。
一宮寺はかわいらしい感じのお寺だ。明治になってから田村神社とわかれることになったためこの地に移転した。
第82番 根香寺
高松市の西側には割合に大きな山がある。幾つかの山が連なっていて台地を形成しているので五色台と呼ばれている。
この五色台の上に、2つのお寺がある。
そのうち1つが第82番、根香寺だ。
今回の旅の最大の難所になる。
正直体力には自信がなく、山登りは全く出来ない。
だがこのお寺は山の麓までしか公共交通機関がない。
さらにもう1つ問題がある。
81番の白峯寺も、この五色台の上にあるのだ。勿論そこも公共交通機関はないし、根香寺と白峯寺の間も遍路道なら5キロ、舗装された車道なら8キロの山道を歩かなくてはならない。
白峯寺から駅までも歩かなくてはならない。ヤバい。
どうせバスで行っても麓までしか行かないので、鬼無駅から行くことにした。
道は舗装されているが、段々と緩やかに上っていく。
ここで疲れたとか言ってられない。根香寺までの半分も来てない上、根香寺はゴールではない。それにしても疲れた。
上り坂はおよそ2時間続くよ!
いやいや登山をする体力はないんで、まったり行きましょうや。しかしこの道は車すらも通らず不安になってくる。一応根香寺の看板は出ている。
わー、今日も瀬戸内海見ちゃったー!
高くなさそうに見えるが結構高いところにいる。
この道を車ならどんなに楽でしょう。
体力のない私で2時間20分、健脚なら2時間かからず着くかもしれないけど、普段街中で暮らしているオフィスワークの人は、坂道2時間上り続けられないから!
着いた!?
着いたー!
結構へとへと。まだこの後白峯寺が待っているのだが、正直心が折れかけていた。
次回にする?
いや、でもまたここまで上ってくることを考えたら、このまま行っちゃった方がよくない?
白峯寺までは2時間くらい。
時刻は午後2時を回ったところだ。
まだ昼ご飯も食べていないので、道中でお店を見つけたら食べたい。しかしお店となると遍路道ではなく車道になり、車のための道路は実はかなり回り道をする。3時間かかるかもしれない。それ+食事の時間となると、白峯寺が閉門してしまう。無理ではないか。
しばし葛藤をし、ご飯を食べたら遍路道に入るという折衷案を出してみた。これでギリギリ食べる時間は取れるだろう。
根香寺は牛鬼の伝説があり有名らしいが、牛鬼になじみがないため、どこら辺が牛鬼なのかよくわからなかった。
第81番 白峯寺
と言うわけで鄙びた食堂発見!
何があるか聞いたらうどんがあるというので、うどんを出して貰った。
多分コロナ禍真っ盛りだったためなのだろうけど、不安になるほど開店休業状態で、何が出て来るのかとヒヤヒヤしたが、うどんはとても美味しかった。
三豊の友人の言ったとおりだった。どこで食べても香川ならうどんを食べれば間違いない。
さて、お腹もくちくなったので遍路道に入ろう。
山道だ。
写真だと傾斜がわかりづらいが、なかなか険しい道だ。なおもっとも大変だったところは写真を撮る余裕がなかったためのこっていない。
それでも結構大変そうだよね?
ええ、大変でした!
遍路道は舗装されてないことが多く、正直おすすめできない。
出来るだけ舗装された車道を通った方がいい。
うどんを食べて余裕をかましているように見えるが、根香寺ですでにバテる寸前で、この辺りは朦朧としながら歩いていた。
五色台は本当にキツかった。
午後4時半。
つまり2時間半歩いた末に白峯寺に着いたー!
白峯と言ったら、崇徳院だ。
若くして天皇になったが、父に疎まれ、政争に負けてここ讃岐に流された。讃岐では穏やかに暮らしていた節があるが、穏やかに写経などをして暮らしていたところ、父に愛され、自分の代わりに天皇になった異母弟から、呪詛をしていると疑われた。
崇徳院は異母弟を呪いながら亡くなったが、その時の言葉がこうだ。
天皇を民とし、民を天皇とするという呪い。
民主主義の世の中になって半ばその呪いは成就している。
崇徳院の悲しみは、愛されなかった自分は何をしても疑われ、愛された異母弟は人に罪をなすりつけながら幸せに暮らしているという、どうにもならない絶望に裏打ちされている。
百人一首の崇徳院の歌は、そんな悲しい人生なのに美しい。
悲しくて可哀想で思い入れがあるためなのか、何故か撮った写真がきらきらしている。
鞄の中で、効果のボタンが勝手に押されてしまっていたようだ。
しかし崇徳院の悲しみに寄り添っていたところだったので、まるで崇徳院から、もう大丈夫と返されたように思えた。
と綺麗に一日を締めたいところではあったが、ここはまだ五色台の上である。
帰らなくてはいけない。
白峯寺からの車道はまたくねくねしていて非常に長い。なんやかんやで午後5時近くで、日が暮れた後に山道を行くのはぜったいにいやだ。
なので遍路道を行こうと、心に決めた。
それがいけなかった。
白峯寺から五色台を降りる遍路道は、誰も使っていなくて蜘蛛の巣が張られ、草もぼうぼう、道なき道を行く。
もっとも大変だった道は写真を撮る余裕もない。
そう、この日最大の苦難はこの後に訪れた。
生きて帰れないかと思った。
迂闊に入り込まないようにしよう遍路道。
たまに道がなくなっている。
それに基本険しい。
時間の許す限り車道を通ろう。
そう心に決めても時間は大体許してくれず、遍路道から上ることになることしばしば。結構な上級コースなので、体力に自信がない人はやめた方が良い。
この時も車道だととっぷり日が暮れることがわかっていたので仕方なかった部分が多いんだよね。
麓まで降りると坂出市だった。ぎりぎり日没に間に合った。駅はまだ遠いし、信号機の数よりうどん屋の数のが多いと自慢するだけあって、信号機がそもそもない。
街灯もない。
日が暮れると平地でも真っ暗だった。
懐中電灯持ってくるべきだった。
鴨川駅が明るくてホッとした。
およそ30分ほど歩いて駅に着いた。
キツい1日だった。
山の中で一人で歩くのも怖かったし、夜の闇がどれだけ暗く、心細いものかを実感した。
この先まだ80の寺がある。本当に全部行ききれるだろうか。
初めて不安を感じた。
旅の終わり
この時の旅のお遍路はここまで。
田村神社
この頃は感染対策で御朱印は書き置きのみになるところが多かったので、直書きしていただけたのはありがたかった。
神社は大好きなのでお詣りせずにはいられない。
金比羅山
神社好きとしてはもちろん金比羅山も行ったのだが、うどんを食べたのが思い出かな。
以前に来たときも金比羅さんでうどんを食べた。
おそらくお店はてんてこ舞さん?
箸袋の店名が違うので気になったが、てんてこ舞さんのホームページには中野うどん学校とあるのでどうやら間違いなさそう。
https://www.nakanoya.net/?service_category=tentekomai
実は麦のアレルギーがあるので、一応避けるようにはしてるのだけど、好きなので食べたい。薬も貰っているのでうどんくらいなら問題なく食べられる。おいしかった。
この参道が風情あって好き。コロナ禍なのでみんな閉まっている。(うどん屋も閉まっている店が多かった)
登泉堂
四国の楽しみの大きなものがここ、今治にある登泉堂。
全国に名を轟かせるかき氷の名店である。
だが、コロナ禍……。
とりあえず営業再開はしていたが、イートインは休止中で、テイクアウトを駐車場で食べるしかなかった。
めっちゃ濃くておいしかった。