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ナポリを見て死ね
物の本曰く、ナポリを見て死ね、とのこと。その意味は、美しいナポリの港を見ずして死ぬことなかれ。死ぬ前に是非ナポリに行きなさいと言うことだ。
イタリア旅行を通して思いつつあるのだが、果たして物の本は正しいだろうか。
実際体験してみると、物の本と現実の乖離が激しい。
ナポリの街は非常に近代的な街で、美しいという言葉とは縁遠かった。
「まあ、見て死ねと言うのは街じゃなくて港だからね」
気を取り直して友人Nが旅行ガイドを開いた。
それによると、港に卵城という城があるらしい。もしかしたらこの城が美しいのかもしれない。
今日のホテルは駅と卵城の間だ。ホテルと卵城の間にはウンベルト一世のガレリアというアーケードがある。
日本人はアーケードというと、雷門通りや新仲見世のような昭和ちっくなものを思い浮かべるが、イタリアのアーケードはひと味違う。小さい写真を見た限り、近いのはディズニーランドのワールドバザールか。
私たちは期待を膨らませて港に向かった。
ところが、思い出して欲しい。ナポリは近代的なのだ。街並みもそうだが道路事情も悪い意味で近代的だった。走る車の量が半端ない。
駅からホテルに向かう広い通りの名もウンベルト一世だったが、日本で言えば、そうだな。
私の経験では名古屋が、ソフトな言い方をすれば独特のマナーで走っていたが、あれより酷い。
ごちゃごちゃと一切整列ことなく走る車の間をバイクがくねくねすり抜ける。
人はと言えば道路を渡れない。渡ろうとしても車が減速しない。
ナポリの住民は気合いで渡っているが、その気合いがどうすれば身に付くのか見当もつかない。持って生まれた性格なのか、何かコツがあるのか。
弱気になってはいけないのかもしれない。意を決して足を踏み出し、迫る車の運転手を睨みつけた。
するとどうだろう。車が減速した。成功だ!
つまりお前がどうしようと私は渡るという意志を見せつけることが大切だったのだ。イタリア人だってエスパーではない。こちらが意志を見せなければ伝わらない。
そうやって何とかホテル・メディテラネオに辿り着き、次は卵城だ。
――大したことはなかったので卵城のことは割愛する。
美しさを求めて私たちは港をぶらぶらと歩いた。夕日に照らされるナポリ港も大したことはなかった。
日が暮れると途端に治安が悪くなった。目つきの悪い少年が、バイクにもたれて鼻歌交じりに何かを話しかけてくる。
足早にそこを遠ざかりウンベルト一世のガレリアに向かう。夕食はその近くのレストラン、チーロ・ア・サンタ・ブリージダに決めていた。
辿り着いたガレリアは瀟洒だった。
しかしそこは、日が暮れるとホームレスの巣窟だった。
「前にニューヨークのダウンタウンに行ったときもこんな感じで首の後ろがチリチリしたよ。なんかやばい」
Nが震える。
私たちを舐めるように見て笑う風体の悪い男たち。
確信した。ナポリを見て死ね、じゃない。
正しくは、ナポリを見たら死ぬ、だ。