見出し画像

邪馬台国までの道を辿る②

ぶっちゃけ、魏志倭人伝をよく読んだことはないけど邪馬台国が好きって人、結構いるのでは!?
私もそうだった。
まさかこんな内容だとは思わなかった。

邪馬台国への道程の他に倭人の習俗も書いてある。
葬式の様子が現代とまるで変わらないことに驚く。
それから、貴人の前では人は柏手を叩いて土下座するとも書かれている。
神社の柏手はこの習俗が由来で、神々はやはり死せる貴人なのだ。


いよいよ邪馬台国へ

ここで文章が代わる。
ここまで[方角]行至[国名]国と書いてあったのが、突然南至を列挙しだす。

あがりつま、いりつま

最初に出て来るのは投馬国だ。ツマ国と読まれる。
ツマの付く地名はそれらしいところがたくさんあるので比定は諸説ある。
元の文章はこれだ。

南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸

不弥国から水行20日南に行けばいい。沿岸航海だ
これが普通の地図ならば不弥がどこにあろうと日本を飛び出るが回転させれば問題ない。

もう少し回転させてもいいのか?
太平洋に出た後は沿岸航行しか出来ないので東南に行くしかない。南に向かっても黒潮で流されて東に行くからいいのかも?
瀬戸内海を進むと畿内説になるが、距離が足りない。
つまり太平洋沿岸を、赤い線の倍分進めばいい。
ちなみに関東に着く。

ところで武蔵国一宮氷川神社は出雲人の末裔が建てたものだという。出雲から来た人々は日本海沿岸を北上し、糸魚川市の姫川を遡って信州にたどり着いた。そこから吾妻郡に出、南下して埼玉へ。そして常陸へと進んだ。

吾妻郡は日本武尊の伝説からその名が付いた。
海に身を投げた弟橘姫を偲んで、吾嬬はやと嘆いたのが始まりだが、アヅマではなくアガツマと読む。

もともとはアガリ投馬じゃないだろうか。

つまり東の投馬。

もう1つ、西の投馬もある。イリツマ。

出雲の方言では、リの音は落ちる。

アガツマとイツマ。これが吾妻と出雲のもとなのじゃないか?

女王の都する所

投馬と並列して書かれているのが邪馬台国で女王の都するところだ。
何故並列なのか謎は残るが、投馬が非常に重要だったからと考えるしかない。
投馬から南は、回転した地図でも陸地がないので(房総半島で日本は折れている)、不弥起点と考えるしかないのもある。

南至邪馬壹國

南、邪馬台国。あっさりしている。

あれ、中津平野に着く?
やっぱもっと回転させた方がいいっぽい。80度くらいかな?
それくらいで正確に全部が指定の方角ぴたりと指すようになる。

何故こんなことになってるんだろう??

女王国東渡海千餘里復有國皆倭種

女王国の東の海を渡ること千余里で国がある、皆倭人である。

海を渡るので海の千里だ。
尺度は対馬壱岐間を利用しよう。

あるじゃん!!!

正確には四国もあるので佐伯市のあたりまでが範囲に入る。

ちょっとこれはマジで、宇佐も関係してくる??
あんまりに作られた「らしさ」が多くて、宇佐には全然乗り気ではないのだけど……。

ただ東に海があるところなのは確かなので、限られては来るんだよね。地図を回転させなくても東に海のある平野だ。

畿内では有り得ない。どんなに方角をいじろうが、奈良には海はない。
読めばこんなにはっきり書いてある。

不弥からどれだけ進めばいいかも魏志倭人伝には書いてある。

女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次日彌馬升 次日彌馬獲支次日奴佳鞮可七万餘戸

水行十日は、末盧まで1万里(海里)十日間で使い切っている。残りの陸行の内、700里分を使っているがこれが何日なのかはわからない。

距離の記載もあった。総距離12000里。

自郡至女王國萬二千餘里

海で1万、残2000。陸で700、残1300里だ。100里の単位はもうある。
不弥から1300里を計測すれば着くはずだ。

そうして、張政の辿った道を探していて、香春神社を見つけたのだった。

命尽くしの神の国

もう1つ忘れては行けない国がある。

自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國 次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王

列記されているのは邪馬台国連合の国々のようだ。これがどこにあたるかは推理するには材料が少なすぎるのでとりあえず放置して、最後の狗奴国が重要だ。
邪馬台国と戦っている国で、この国がどこかと言うのはほぼほぼ一致している。
熊本県菊池市だ。

その前の国々の列記だが、奴国が2回出て来るのにお気づきだろうか。
次に、次に、と書いてるのに2回出て来るからおかしい。円上に順番に読み上げて回帰したのかと比定してみると、ここは確実にそうだろうという場所もめちゃくちゃな順番で書かれているのでどうやら違う。

なんで2回書かれているのかの推理は専門家にお任せするとして、その後に、其南有狗奴國とあるのだから奴国の南にあると考えていいのじゃないのか?

回転させた地図で奴の南にあるのは基山だ。
ここは紀氏の出身地だとも言う。
この地の北には筑紫神社があって、かつて命尽くしの神が道を行く人の命の半分を奪っていた。その神を鎮めた姫の名を甕依姫という。

狗古智卑狗は菊池彦と読まれているが、魏略では拘右智卑狗となっており、クウチヒコという呼び名になる。

東南五東里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属王女也女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

魏略逸文

ウチヒコに思い出す名が幾つもある。
武内宿禰、宇遅彦、珍彦……。
この名は紀氏の摂政職に与えられる役名だ。

狗奴国は紀の国では?

紀氏は天照大神の鏡の伝承を持つ。
天照大神が卑弥呼で、紀氏が狗奴国の末裔ならば、敵同士だったはず。

どういうこと!?

通説では

不彌は宇美という太宰府の北にある内陸の町で、そこから南に水行二十日で投馬に着く。内陸から水行というのに皆行き詰まるらしい。そらそうだ……。
投馬からさらに水行十日陸行一月南に行くと邪馬台国に着く、と言うことになって、皆頭を悩ませている。

え、水行十日って帯方郡から1万里(千里×10日)海を行ったからすぐにそれかと思ったけど、違うのか。全行程1万2千里だからそうとしか考えられないじゃん。不彌からさらに水行したら2万里を越えてしまう。

なので投馬国の向こうに邪馬台国があるのも有り得ない。ここは並列に読んでいい。

それに、何故陸路なのか、も考えなきゃいけない。
中津平野は関門海峡と速吸瀬戸に挟まれた間にあって、舟の難所を越えるので、大切な使者を危険に晒さないようにしたのかもしれない。
遠賀川を船で遡り、どこかの峠を越えて中津平野に入るのがベストだけど、不彌から入ったと言うことは遠賀川は邪馬台国の勢力域ではなかったのかな。
関門海峡は、難所ではあるけど小舟なら入れたはずで、それでも避けて陸路を通ったのも、関門海峡付近が邪馬台国の勢力外だったからなのかもしれない。

中津平野は、日本から見るとただの一地方の平野だけど、大陸からは頑丈に守られている。
時は三国時代。
大陸は騒乱の中にあり、朝鮮半島では後の三国となる新羅や百済の芽が育ちつつあった。激変の時代だ。
難民も多くあったろう。海を越えて倭国へ。
その後もずっと渡来人たちが来るのにこの騒乱の時代に来ないわけがあろうか。

福岡平野では守れないから、遷都した?

そんなことを考えていると、ますます中津平野は怪しい。
ここが邪馬台国……?

おわりに

道を辿っていくと、実はどう遠回りしても中津平野を飛び越えて、国東半島の途中か、国東半島を横断するならば別府に着いてしまう。

速見温泉

速見温泉は、日本最古の温泉療養地だったのかもしれない。
何故かというと、最古とされる道後温泉のお湯は神話の中で速見温泉から引かれているからだ。お湯を引いたのは大国主命なので少なくとも速見の湯は大国主命よりも昔からある。

速見は現在の別府から日出の地域にかけての古称だ。
日出はヒジと読む。
その地域のどこが速見湯なのかはわかっていないのだが、この地域には現在も豊富に温泉が湧いている。

高齢であった卑弥呼が湯治をしていたとか?

日出は後に宇佐神宮を建てた大神氏が本拠を置いた場所でもある。また、真那井という池もある。

途中から邪馬台国でなく女王国と呼ぶようになったのは、卑弥呼が邪馬台国から離れて湯治をしていたから?
確かに、女子だけの王宮に離れて住んでるような描写もある。

ただ、別府でも日出でもとても邪馬台国の住民を養えるだけの耕地がない。

やはり中津平野なのか?
中津平野は候補となる佐伯市までの中ではもっとも大きな平野だ。
それに山国川。本当に山国の港だから邪馬台国なのかも。

「まぼろしの邪馬台国」で、宮崎康平が、邪馬台はヤバタと読むと言っていたのも思い出す。

邪馬台国宇佐説は作家から支持されているようだ。
高木彬光も宇佐説だった。専門家からの支持はほぼない。何故ならば中津平野は倭国大乱の考古資料に乏しいのだ。

少なくとも中心地ではない。考古学だけを追えば、福岡平野・筑紫平野の外に邪馬台国を置くわけには行かないのだ。

卑弥呼の眠るところ

崇神天皇の宮から荒ぶる鏡を豊鋤入姫が持ち出して三輪山に祀った。鏡は天照大神の形代だった。
豊鋤入姫の後を姪の倭姫が継ぎ、倭姫は鏡の安まる地を探して彷徨い続ける。
何十年も鏡は彷徨い続け、見つけたのは伊勢だった。
このエピソードを知ったとき、私が思ったのは、天照大神が卑弥呼ならば、倭姫は卑弥呼の魂の安まる地を探しているのではないか、と言うことだった。
その故郷、邪馬台国を。
伊勢によく似た地形の場所に、邪馬台国はあるのではないか。

そこはかとなく、中津平野と伊勢平野は似ている。川の数、位置、伊勢神宮と宇佐八幡の位置。

宇佐だけに胡散臭いとか思っててごめん。
これはあり得るかもしれない。

狗奴国

魏略には伊都国の後にその国王女王に属すと書かれ、女王の南に狗奴国があると続く。
魏略の全文が残っていないので文意がわからないところがあるが、伊都国の直後に文章が来てることから伊都国の女王の南に狗奴国があるように見える。
伊都でも奴国でも南に基山があるので大して変わらないが、魏志倭人伝で王がいるのは邪馬台国と伊都国と狗奴国だけだ。

其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也

魏略逸文

後漢書にも同じ記述があるが、魏略の方が早く書かれた。
『自謂太伯後』
太伯は周王朝の始祖、武王の大伯父のことで、弟の血に聖王が現れると知った長男太白と次男虞仲は弟に家督を継がせるために家を出て南に降った。そして呉を建てたという伝説がある。

紀元前1100年頃のことで、その後呉の民が海に出て日本に流れ着いたと、倭人が自ら言っていた、という話だ。

ところで日本語や日本の文化には中国の呉の地域の影響が非常に強い。また、弥生時代が始まったのは太伯の時代の後まもなくからだ。

太伯の姓は周王室と同じ姫氏だ。姫氏は黄帝の姓でもある。

《ここから下は完全妄想なので注意⚠️》

狗奴国、紀の国、紀氏は姫氏じゃないだろうか。
卑弥呼は紀氏の出身じゃないだろうか。
つまり卑弥弓呼と卑弥呼は同族……。
日本は縄文などは女系集団で、その後も奈良時代くらいまで女系で、平安になっても母方で子を育てる習慣が続いたくらい、女性が優位な時代があった。
狗奴国は男王で卑弥呼に敵対している。
狗奴国は中国の風俗を色濃く残して男尊女卑で、卑弥呼は一族の女だから、目下だったんじゃ。

姫氏の王統が卑弥呼、台与を通じて受け継がれているから、天皇家は聖なる王家であり続けたのでは。

何故ならかつて中国では日本を『東海姫氏国』と呼んだからだ。

いいなと思ったら応援しよう!