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命尽くしの国

伊邪那岐が黄泉に下り伊邪那美を取り戻そうとした後に、その醜く恐ろしい姿に怖気づき、逃げ出してしまう。

傷ついた伊邪那美は伊邪那岐に追いすがり、破邪の物を投げられては足を止めて、とうとう地上までに追いつけなかった。

千人でやっと引けるほどの大岩に阻まれて、伊邪那岐と引き離された後、伊邪那美は呪う。

「愛する人よ、このようなことをするならば、わたしは一日に千人を殺そう」

と。

伊邪那岐は答える。

「それならば私は一日に千五百人を生まれさせよう」

と。

神の愛憎で人は簡単に殺され、また生まれる。


甕依姫

筑紫神

筑後国風土記は大方失われているが、失われる前にほかの文献に引用されて一部残っている。
命尽くしの神はそんな風にして残った筑後国風土記にある。

昔此堺上有麤猛神往來之人半生半死其數極多因曰人命盡神于時筑紫君肥君等占之令筑紫君等之祖甕依姬為祝祭之自爾以降行路之人不被神害是以曰筑紫神

筑後国風土記逸文

昔この境に荒ぶる神がいて、道行く人の半分を殺していた。そのため命尽くしの神と呼ばれていた。
そこで境の両側の国、肥の君と筑紫の君らが自らの祖である甕依姫を祭るとそれより後、神の祟りは止んだ。命尽くしの神は筑紫の神と呼ばれるようになった。

この神の名より筑紫の国の名は付けられたという。

この話に出てくる命尽くしの神は筑紫神のことで、筑紫神社に祀られている。

筑紫君は筑紫国造で、祖は大彦とされる。
また肥君は肥国造で、祖は景行天皇の皇子豊門別だ。

肥国造の祖

とは言え、筑紫国造の祖や肥国造の祖はほかにも何人もおり、実際のところはわからない。
肥国造の有力な人物に健磐龍(たけいわたつ)がいる。彼は神武天皇の皇子神八井耳の子で、妻を阿蘇姫と言う。子を速甕玉(はやみかたま)と言う。
……またチリチリと何かに触れる人名が出てきたが、とりあえず置いておいて。
神八井耳は神武天皇がまだ九州にいたときに娶った吾平津媛との間に生まれたとも、媛蹈鞴五十鈴媛との間に生まれた綏靖天皇の兄とも言う。どちらにしても長子を後を継ぐ制度ならば正当な後継者はこの神八井耳だが、弟の綏靖天皇が継いでいるのと、欠史八代の多く、神武天皇も末子であるため、古代は末子相続だったのではという説が出てきた。

末子相続だと一世代の数え方が大分伸びる。およそ40年ほどまで伸びるかもしれない。
が、お墓の人骨の遺伝子などの研究が進んだ結果、日本はどうやら末子相続ではなかったらしい、とわかった。長子相続で男女の兄妹または姉弟で家を継いでいた。そして弟妹たちは結婚で外に出ても墓は実家に戻った。家を継いだ二人だけが新しい墓を作ったという、面白いけど神社の神の名を見ると納得できるような形だった。
と言うわけで、神八井耳はどうして跡を継がなかったのかとか、なぜ九州にいるのか、とか、阿蘇姫とは誰かとか、気になるところがいっぱいある。

この神八井耳の子孫が多氏だ。

多氏と大彦。混ざったかなという疑いが出てくる。
筑紫君の祖と肥君の祖はもしや神八井耳では?
と。

ただ、私は欠史八代は、おそらく景行天皇の後に続く王朝だったのでは? と思っているので、神八井耳が神武天皇の子である可能性は半々かなあ? と思っている。

それと、皆すっかり忘れてるかもしれないが、耳がつく人物は投馬国の王だ。西の投馬か東の投馬かはともかくとして、その血筋にある人物だろうと思う。

豊門別

景行天皇の后には九州出身の姫が多い。事績も九州のものが多いため、景行天皇もおそらく、邪馬台国の高官だった誰かだとは思う。
九州、襲の国の姫、武媛の息子が豊門別だ。
大分国造と火の国造の祖とされる。
また襲の国の美しい姫、御刀媛を妻として豊国別が生まれる。豊国別は日向国造の祖となる。
二人の姫(もしかしたら同一人物で、二人の皇子も同一人物かもしれないが)は襲の国の熊襲梟帥を女を利用した酷いやり方で平定した手土産に妃としたもので、これが禍根を残し後のヤマトタケルの征西の伏線となる。
その時に利用した熊襲梟帥の娘たちのうち、妹の市鹿文(いちかや)が火国造に下げ渡されている。
この時の火国造が神八井耳の子孫となるわけだが、神武天皇と景行天皇もそう時代に差はないと思うので、神八井耳その人であったのではないかと思う。

吾平津姫

神八井耳の妻阿蘇姫は彦八井耳の娘だ。
彦八井耳は神八井耳の弟で――。もともと怪しい系図なので信じ切ることは出来ないが、このあたり、兄妹相続の名残か何かの混乱の気がする。
ところで、神八井耳の母とされる一人、神武天皇が吸収にいたときに娶った姫は火須勢理の娘だ。
火須勢理と三島溝咋姫が同一人物ではないか説に立つと、姫蹈鞴五十鈴姫と吾平津姫も同一人物臭い。
つまり、神八井耳は阿加流姫(甕津姫)の孫となり、かくて肥君の祖は甕津姫となって、甕依姫=甕津姫の可能性が出てきた。

筑紫国造の祖

そもそも肥君の祖と同じと言っているのでここまででいい気もするが、とりあえず追ってみよう。
大彦が祖だという。

ちなみに大彦の子らの中に筑紫国造の祖となった者は居ない。
この時点で詰んでいるが、一人怪しい子がいる。
波多武彦という子どもだ。
この波多武彦は天日槍の娘天美明姫を娶った。その後大阪や越後の三宅氏となったが、後の神功皇后の時代に、九州に天日槍の子孫の豪族が仲哀天皇と神功皇后を出迎える。九州に天日槍の子孫がいて、筑紫君が大彦の子孫ならばこの血統が怪しいが……。
そもそもの話、大彦は誰なのか。

大彦

大彦と言えば、埼玉の稲荷山古墳から出てきた鉄剣が思い出される。時は雄略天皇の時代。雄略天皇と言えば、神武・崇神・垂仁・景行・神功・応神・雄略・欽明と、阿加流姫の伝説を追うと非常によく出てくる天皇の一人だが、今回は出土物の話なので阿加流姫は置いておこう。

稲荷山古墳は5世紀後半の古墳で、行田市にある。
1968年、この古墳から鉄剣が発見された。
そこで保存作業を施していると、1978年、剣に銘文が刻まれているのが発見される。

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

剣の持ち主は乎獲居臣(おわけのおみ)、その祖先は意富比垝(おおひこ)、それから祖先の名が列記される。現存するもっとも古い系図はこの銘文になる。
乎獲居臣が仕えるのが獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)で雄略天皇(大泊瀬幼武)が充てられる。

意富比垝が大彦ではないかという説があり、そうすると大彦から8世代で雄略天皇にたどり着く。

天皇家の系図を辿ると9世代で、ほぼ合っている。
大彦は第8代孝元天皇の皇子で、系図上では崇神天皇の伯父にあたる。
大彦の同母兄弟には少彦男心、稚日本根子彦大日日(開化天皇)、倭迹迹姫がいる。少彦、倭迹迹姫が気になるところだが名前だけなので何とも言えない。母は欝色謎で物部氏の出だ。

これまでのところ、第7代孝霊天皇が大山祇に関係が深かったり、第9代開化天皇が丹波に関係が深かったりするので、もしかしたら第8代もどこかの王家かもしれないと疑いつつ、大彦の系図を辿ってみる。
子に稲荷山古墳の主、乎獲居臣の祖多加利足尼(たからのすくね?)の名は見えないが、系図は奈良時代に活躍している氏族や社家のものしか残っていないので、乎獲居臣の子孫がその後絶えてしまったから多加利足尼の名も消えてしまったのかもしれない。

どこの王家かと言えば大彦の兄弟と子孫を見るとうっすら察しがつく。少彦、倭迹迹姫……。阿加流姫じゃないか……。
大彦の子孫は阿部氏、膳臣などだが、分布は伊賀、北陸、そして信濃。
伊賀は伊勢津彦の居たところで阿部氏の本拠地となる。
後に秦氏が集住し、高い技術を持つ先進地域となった。
北陸、信濃は出雲族が移住した地域で御穂須須美の神社が点在する。
埼玉も合わせれば、すべて出雲が関わる。

倭迹迹姫

大彦の妹、倭迹迹姫は名前の類似から、よく倭迹迹日百襲姫と同一視される。
他にも倭迹迹日百襲姫と同一視される女性は何人か居て、崇神紀にも、倭迹速神浅茅原目妙姫がいる。この女性などは目妙姫に注目して遠津年魚目目妙姫と同一視してもいい気はするが、目妙姫はただの美しい姫という形容詞なので倭迹に注目したらしい。
その倭迹はどういう意味かと言えば、倭と迹はつながらない。
迹迹の部分が重要で、田田、筒、千千のどれか、あるいはそのすべてが迹迹と同じ意味だと思う。
田田は大田田根子だ。大田田根子などは、根という男性の身分を表す語尾か敬称かを外し、大と言う形容詞を外せば田田しか残らない。
いやむしろ大田田根子=大彦まであり得る。
ちなみに大田田根子は大物主の子で祭主だ。
筒は山代大筒木真若王で、日子坐の子だ。子孫に神功皇后がいる。山代が地名(京都)、大が形容詞、木が伊邪那岐の岐、御間城の城、男性の尊称で、真若王が若君のような意味だとすれば、筒だけが残る。筒は竹だとも星だとも解される。

ところで日子坐とよく似た名の異母兄弟、多分同一人物の彦湯産隅にも筒の名を持つ子がいる。大筒木垂根王と言い、兄弟に讃岐垂根王という人物もいる。娘の名が迦具夜比売といい、垂仁天皇に嫁いでいる。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さぬきの造となむいひける。

竹取物語!
初めて迦具夜比売を発見した時に、えええ実在かよ! 父と叔父の名がもろじゃないか!
と思ったものだったが、まさかこんなところに繫がるとは。

そう言えば日子坐には神大根王という子もいる。
神と付いているのでおそらく重要なはずで、根は尊称だから、この人物も大彦くさい。

いやむしろ大彦=大田田根子=山代大筒木真若王=神大根王の可能性すら。

田田、筒、千千の話に戻ろう。

筒のつく女神もいる。大分前に登場させた御穂須須美だ。須須の由来は筒だと書いたと思う。

千千は誰かと言えば栲幡千千姫だ。崇神天皇の皇女に千千衝倭姫がいるが、母は大彦の娘御間城姫だ。
ところで崇神天皇の次の天皇、垂仁天皇には磐衝別という皇子と倭姫がいる。
崇神天皇の皇子皇女は垂仁天皇からコピーされたものではないかと思う。
その倭姫は豊鍬入姫、遠津年魚目目妙姫の三代がすべて一人、台与だろうという話は大分前にしたと思う。

田田、千千、筒、迹迹の意味はなんとも言えないところだが、竹かなあと思う。
甕の由来が水光(みひか)なのか御食(みけ)なのかはまだ結論が出ていないが、御食だとしたら、御食のケは竹の器のことらしい。
阿加流姫はなぜなのかわからないけど、竹と非常に縁が深い。

倭迹迹姫はつまり倭竹姫みたいな名になる。
竹姫……武姫? ん?

熊襲梟帥の姫の名が武姫でその子孫が肥君となったのだったか。

と言うよりこれは竹野姫?

大彦の子、波多武彦が天日槍の娘天美明姫と結ばれて三宅氏となる。
越後は出雲族で、難波は応神天皇の地。
残念ながら私の手元の資料には三宅連の系図がなくて何も検証できない。

それはそうと御穂須須美はやはり三穂津姫と同じ神のようだ。

甕依姫

甕依姫は、そもそものはじめから甕の名がついていたので阿加流姫くさいという疑いを持っていたが、それは置いておいて書いてあることをヒントに探ってもその奥に阿加流姫の姿が見えてくる。

どうやら命尽くしの神を鎮めるには甕依姫の力が必要だったらしい。

ところで阿加流姫は出雲に行き、そこから奈良に攻めのぼって、その後伊勢津彦を追ったにしろ丹後の奈具社で心安らいだわけで、何故九州に?
という謎が出てくる。
奈具社のあと、丹波王家に助けられ、天日槍と再会して出石で幸せに暮らしたか、あるいは美保関で暮らしたかはわからないところだが、そこら辺で消息が途切れている。

実は天日槍の子孫は、何故か糸島に住んでいたらしい。

どうも、彼らは九州に帰ってきてるようなのだ。
とすると、奈良との関係はどうなっていたのだ?
王権は?

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