亡き女王に捧げる鎮魂歌
阿加流姫逍遙シリーズの目的は、お遍路のすすめの徳島編で妄想爆発しそうなので、あらかじめ説明しとこうと言うものだ。
書き始めたら長い長い(汗)
別に結論出ているわけではないので、これからも意見は変わっていくと思うけど、邪馬台国のあたりと神武天皇の東征、豊受女神=阿加流姫はわりあいに合ってるんじゃないかと思う。
卑弥呼の死
卑弥呼の死は魏志倭人伝でこのように語られる。
死因はこれだけ見ると戦死のように見える。
それはともかく、その八年というのが正始八年のことで、これが西暦で247年となる。
死後直径百余歩というから140~150メートルくらい。(この大きさは宇佐神宮本殿のある小椋山と同じくらいなので、宇佐本当にあやしい)
この頃のお葬式は、天稚彦の葬儀にも出て来たようにまず殯屋を建てる。殯は尊い人ほど長い期間行われる。天武天皇は数年にわたり殯が行われた。
卑弥呼も同様だったろう。
もしも別府で亡くなっていたならばその遺体は舟で宇佐まで運ばれたと思われる。
そこで殯の行われた場所だが、姫島ではないだろうか。
何故かと言えば、阿加流姫が姫島に行く理由が他にないからだ。
天岩戸の宴はここで行われたのではないだろうか。
殯の様子も魏志倭人伝に描かれている。
喪主は泣くが他の者は歌舞をして飲酒をする。
この風俗は後まで残っていて(何なら現代も残っている)、天皇の殯に歌舞を捧げる遊部という部民もいた。
天日鷲の竪琴も、天鈿女の舞いも、殯で死者に捧げる歌舞だ。
麻布の御幣を立てたのも、後の葬礼の野辺送りと全く変わらない。
そしてそれらを用意したのが後継者である阿加流姫であると言うのも全て筋が通る。
栲幡千千姫は安房忌部氏の系図で天鈿女を別名に持つが、栲幡もまた植物繊維の織物のことで倭文だ。
エロティックな舞いだとされる天鈿女の舞いが、幼い少女によるものとすれば意味合いが変わる。
(台与が女王となったのが13歳なので葬儀の時はずっと幼い)
新羅にいた姫
延烏郎と細烏女の居た迎日県は後の新羅となる斯廬があった場所だ。
天日槍の物語と金閼智の物語を繋げれば、天日槍こそが金閼智で、阿遅鋤高日子根となる。
天日槍は阿加流姫と別れたまま(だが不自然に近いところにいる)だが、阿遅鋤高日子根と下照姫は兄妹であり夫婦でもある。
瓠公と脱解に阿加流姫を託された天日槍は、幼いうちは妹のように、成長してからは妻として彼女を愛したのだろうか。
卑弥呼の死の時はまだ幼い。
阿加流姫が去ったのは岩に乗ったら運ばれたわけでも、夫から逃げたわけでもなく、卑弥呼の殯に行くためだ。
まだ幼いが唯一残された卑弥呼の後継者として呼ばれたのだ。
運んだのは須佐之男だろうか、脱解だろうか、天日槍だろうか。
男王立つ
魏志倭人伝は語る。
男王が立ったが、国中が従わなかった。
この男王が誰かと言えば、おそらくだが、天忍穂耳ではないだろうか。
神武紀にある、長臑彦だろうと思う。
長臑彦が天忍穂耳だと思う。
根拠はある。
神武天皇の時代が卑弥呼が高齢で死した後のこととすれば、神武天皇と卑弥呼の間には神話のように五世代もない。
神武天皇こそが天孫、天照大神の孫だろう。
とすれば父鸕鶿草葺不合が天照大神の子。
天照大神には五人の子がいることになっているが、慈しみ愛するのはただ一人、天忍穂耳のみだ。おそらく彼は一人息子だ。
鸕鶿草葺不合こそが天忍穂耳だ。
鸕鶿草葺不合は長い名をこう言う。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊。
ひこなぎさ、たけうがや、だ。
波瀲は中州を指す。つまり、中州根彦だ。ナギサ根彦でもそう変わらないだろう。
神武天皇の父が長臑彦だ。
であれば元から大和に居たのではない。
神武天皇の祖父は、神話を信じるならば、須佐之男となる。
神武天皇の別名若御毛沼(わかみけぬ)は、祖父から継いだ名なのだ。
そして間の世代が増やされているだけとすれば、山幸彦の名彦火火出見と神武天皇の諱が同じなのは、同一人物だからだ。
山幸彦の妻豊玉姫は、台与となる。
ちょっとここら辺が今悩んでいるところで、阿加流姫を巡る男が三人出て来る。
兄、脱解、おそらくこの人物が五十猛。
夫、天日槍、阿遅鋤高日子根。
甥、神武天皇。
神話を信じるならばどうも若いときは神武天皇と結ばれているような節がある。
女子的に、阿遅鋤高日子根一筋で行ってほしいのだが……。
阿加流姫の娘と神武天皇が結ばれているというのが一番しっくり来るのだが、阿加流姫が若すぎる。神武天皇の方がどう考えても年上なのだ。とすると世代が合わず、阿加流姫本人と結ばれているのでは、と。
基本、神話伝説は筋の通る限りは信じる方針なのでここら辺がどうなっているのか、あらたな神社の社伝でも見つけないと結論出そうにない。
男王が天忍穂耳だろうというのは、もう1つ根拠がある。
葦原中つ国平定の時、天忍穂耳に行きなさいと天照大神は命ずるけども、天忍穂耳はなんだかんだ理由を付けて断っている。
その後天穂日や天稚彦が使わされ、ついには瓊瓊杵尊が降りることになる、という神話になっているが、なんだかんだ理由を付けて動かない人物に誰が付いていくだろうか。
人望なさそう。
なので国中不服。
天忍穂耳の人望がなさ過ぎて、聖なる血筋なのに誰も付いてこず、孫や姪が表に出させられたのだ。
現代でもありそうなお家騒動だ。
台与女王となる
何年かかったか記載がないのでわからないがついに男王が斃れ、卑弥呼の宗女台与が女王となる。この年13歳だ。どれだけ男王に人望がなかったかわかろう。
台与に張政も肩入れしている。
阿加流姫が育った辰韓斯廬の値は弁辰と雑居していて、その地域には多く中国系の亡命者が住んでいたようだ。後の弓月君(秦氏の祖先)などもこのあたりに住んでいた。
阿加流姫に薬草などの知識があったのは中国系の住民たちの教育によるものなのかもしれない。
中国語も話せたのだとすれば張政は肩入れするだろう。
言葉の話せない王子
また、阿遅鋤高日子根の話に戻るが、彼が金閼智で仙見王子だとすれば、当時の金官伽耶は倭国だ。倭語を話した仙見王子が言葉の違う辰韓や、中国語を話す住民たちと、会話が出来なかったと言うのも説明が付く。舟に乗せて言葉を教えたのは、船乗りたちは交易で様々な言葉を覚えていたからか。あるいは倭と斯廬を行き来する大国主――この場合は須佐之男であり瓠公だろう――がつきっきりで教えたのか。
阿加流姫も天日槍も筋が通るのだ。
天日槍は都怒我阿羅斯等という名で大加羅の王子としても出て来るのだが、大加羅はこの頃は金官伽耶だった。