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邪馬台国までの道を辿る①

邪馬台国が今になるまでどこなのか確定されないのは、その記述の通りに進むと日本国内を飛び抜けてしまうかららしい。
だから記述のどこかをいじらなくてはいけない。
みんな自分の都合の良いようにいじるものだから諸説花開き、トンデモ説もたくさんある。
邪馬台国のみならず、中に登場する国々の比定も勝手にしていて、根拠は今の地名との類似くらいなのだが、うん、楽しいよね。

きっかけ

その日は確か柞原八幡宮に行こうとしていたのだと思う。博多から特急に乗って、中津平野を南下していた。

中津平野と言えば南部に宇佐がある。
宇佐八幡宮邪馬台国説とかあったなあと思い出す。
私はその説にはあまり賛成ではないのだけど、一応試してみるかとGoogleマップと魏志倭人伝全文を開いた。
魏志倭人伝の方はうっかり全漢文だったが、内容はうっすら知ってたし、中高と漢文は習ったし、まあ何とかなるだろう。

ふと窓の外を見ると丁度山国川を越えるところだった。

(邪馬台国って山国の港って意味だったりしてね)

宇佐よりそちらの方がまだ説得力ある。
中津平野の北部には京都郡みやこ町なんて言う地名もあって、あやしいはあやしい。

が、私の本命は高良山だ。

魏志倭人伝の行程をGoogleマップで辿っていくと、奇妙なことに気付いた。

――帯方郡を出てすぐに、方角がずれている!?

魏志倭人伝の行程を辿る

と言うわけで逐次解説魏志倭人伝。
地図も貼っていくので、みんなで確認してみよう!

私、邪馬台国本は読んでたけどそう言えば魏志倭人伝原文って読んだことなかったわ。
書き下し文は邪馬台国本に載ってるので知ってたけど。

原文はセンテンスの区切れがわからない。
文章が曖昧に分かれる。
この文字が何にかかっているかわからない。
私がもの知らずだからでなくて、そういうものらしい。
それを恣意的に読んで、所謂魏志倭人伝になっている。

恣意が多過ぎるんじゃないですかね。

放射説とか海上から見たとか面白い説を見てきたけど原文からすでに曖昧だった。

この原文は張政の報告書を元に、張政が生きているうちに書かれたものだろうという説が有力だ。
張政は中国の役人で、邪馬台国に来て見聞し、また卑弥呼の死を知り、その後台与の即位にも立ち会ってると思われる。帯方郡に帰ることがあったのか滞在し続けたのかはわからない。
倭人から聞いたままを書いたもので張政は邪馬台国を訪れていないという説は大分弱くなる。

帯方郡出発

倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

文字まで旧字体なのでわかりにくいがこれが魏志倭人伝の冒頭で、出発地は帯方郡になる。帯方郡は中国の出張所のような街でソウルと平壌の間くらいにあった。
そこから船に乗って海岸沿いを行き、韓国を経て南に行ったり東に行ったりしながら倭国の北岸の狗邪韓国に着く。ここまでの距離は7000里。

ここで1つお約束があって、海の千里と陸の千里は違う。
海の千里は船が一日で進む距離のことで、一日と言うのは朝船出してから夕に停泊するまで。当時夜は航海しなかった。そのため沿岸航海だった。

当時の朝鮮半島

イメージカラーで塗ってみたが赤が中国で南半分に帯方郡があった。(島々や端っこに塗られていないのは範囲指定を忘れただけなので深い意味はない)
オレンジが韓国で、この中でたくさんの国にわかれていた。
大まかには3つ、弁韓、辰韓、馬韓だったがそれぞれが統一されていたわけではなく、しかも後の新羅の地にあった辰韓の盟主は馬韓の北、帯方郡近くにあった月支国王だったというのだから意味がわからない。

歴史書が残っていればさぞやドラマティックな世界だったのではと思うのだが、現存する韓国最古の歴史書三国史記ではこの時代のことは書かれていない。この時代には新羅も百済もあったことになっている。何なら日本書紀でも同様で、何故当事国の歴史書に書かれていないのにこんなに状況がわかっているのかというと、魏志倭人伝の韓国版がある。

青いところが倭国だ。日の丸の赤にしたかったが、中国で使ってしまったので海の青に。その昔済州島の神話では日本は東海碧浪国と呼ばれていたそうな。中国は四神相応の土地だが、そこでも東は青で龍と言っている。東海中にある龍脈を持つ国は日本だ。

何故朝鮮半島に倭国が?
こいつ極右か!?
と疑う前にちょっと聞いて欲しい。
当時は日本も朝鮮も統一国家はない。
さらに言うと、日本人はお魚大好きな海の民だが、古代からずっとそうで、船に乗りまくっていた。
海を越えられると、越えられない人々に出来ないことが出来て豊かになる。交易だ。
倭語を話し、海を越える倭人と呼ばれる人たちが住み着く国を倭国と呼んだ。
朝鮮半島南辺には倭国があった。

なので

其北岸狗邪韓國

なのだ。その北岸とは倭国の北岸、つまり狗邪韓国は倭国となる。

狗邪韓国は、伽耶諸国の内金官伽耶だと言われる。

要するにここまでの文は、狗邪韓国に着くまで船で7日かかったよ、と言っているに過ぎない、のだが、

海岸水行歴韓國

韓国を経て、

まあ、韓国を経るっていうんだからこうだよな?

乍南乍東

南に行ったり東に行ったりしながら

南? 東?

私、読み方間違っているのか?
どう見ても北東に進んでいるように見える。
もし韓国を経ての部分だとしたら南西だ。
南東に向かう航路はない。

こんなところで詰まっている人は見たことがないので慌てて検索してみると、一般的にはこの文章は朝鮮半島を南下して東行すると読んでいるらしい。
ただし、乍南乍東は小刻みに南や東に方向を変えながらと読むのが正しいらしく、やっぱり私の読み方の方が正しいのでは?

しかし方角を間違うことってあるのだろうか。
と考えてみると、この時代は中国でさえ方位磁石はなかった。(占いには使っていた形跡がある)
それでは困るので春分や秋分に計測して、方位は土地土地でわかるようにはなっていただろう。
軍を動かすときは指南車という歯車の仕組みで一定方向を指す絡繰りが使われていた。

だが、今回は船だ。
海上では、星を読めない場合、船乗りに訊くしかない。

船乗りと言えば当時は倭人の可能性が高いが、倭人の航海は陸の影を見ながら航海するもので、夜は海に出なかったから方角は関係ない。
さらに言えば、日本語では北と南にあたる言葉が生まれたのはかなり後のことで、東西のみ概念があった。
東はアガリ、西はイリ。
つまり、日が上がる方角、日が入る方角。
東はどちらだ? と訊かれて、太陽が昇る方角を答えたのでは?
なんてね。
でも方角がズレてるとしか思えないんだよ。

このくらいずらすと、「郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」にぴったり合う方角になるかな。60度くらいだろうか。
魏志倭人伝の記述内容から、季節は夏と思われ、台風を避けて7月頃に船出したとしても太陽の出る方角は60度もずれない。
ざっくり30度くらいだから倍も違う。

邪馬台国とは関係ないところだからまあいいけども、ここから違うなんて聞いてないよ。

海を渡る

狗邪韓国に着いた使者(多分張政)は初めて海を渡る。

始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴

初めて海を渡ること千里ちょっと、対馬に着く。

千里もの海を渡るとは大変なことだと思ってしまうが、海の千里は航海1日分。それも手漕ぎで急がなくてもいい。
実際対馬のお年寄りに訊いたとき、そこに国境がなかった頃は手漕ぎのボートで韓国に渡ったと言っていた。朝出れば夕には着いたらしい。
対馬の西岸、木板の海岸から海を見ると韓国の陸の影が見えた。

対馬はこの記述の通りに海岸まで山が迫る山がちな島だ。

又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

また海を渡る。壱岐に着く。一大国は一支国の誤字だというのが通説だ。
対馬にしろ壱岐にしろ3世紀の地名が残っているのが凄い。
地名どころか、日本語そのものも古い日本語をよく残しているらしい。
日本語どころか中国語の古代の発音もよく残しているらしい。
早くに表音文字が出来たお陰だろうか。

そんなところから現代の地名をヒントに邪馬台国の国々を比定する考えが出来たりするわけだ。

本土上陸

又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之

そしてまた海を渡って末盧国に着く。
この末盧が松浦だと知って、日本人、どんだけ地名変えないんだよと中学の時私は驚いた。
なお松浦と言っても定説では唐津と言うことになっている。

東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐

ここで私はまた引っかかった。
松浦から伊都に行く道程が書かれているのだが、東南???

東南か?

なおここに引っかかる人は居ない。
この後奴国までは全員見解が一致している。

不思議に思って伊都国歴史博物館で聞いたところ、さまざまな説があるが、出発したときの方角だったのではないかという見解だった。

陸路ならば指南車が動きそうだが。

ふと思いついて、韓国の時に回した地図のまま末盧国と伊都国の位置関係を見ると、東南になった。

この道程、やはり方角がずれているのでは?
理由はわからないが、確定している地名の所で60度時計回りに回転している。

伊都は紀元200年前後、非常に有力な国だったようだ。
その名残なのか、魏志倭人伝でも国の中枢の出先施設として表に出てきている。

同じ報告書を元に書かれたであろう魏略では後で出て来る狗奴国は伊都国の南となっている。

奴国へ

奴国までは伊都国から東南百里。

東南至奴國百里官曰[シ]馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸

ここもまた地図は回転させた方が良い。

ここで問題が1つ。
末盧から伊都までが500里、伊都から奴国までが100里なので、末盧-伊都間は伊都-奴国間の5倍あることになる。
唐津では近すぎてそんなにない。
伊都国は平原遺跡が比定されているが、奴国が難しい。須久岡本遺跡のあるあたりという人も居れば、古代からある那の津のあたりと言う人もいる。
ただ国使が来たとなれば港が終着地とは思えず、国の中枢があったという須久岡本遺跡だろうか。

場所によって距離が変わってしまうので概算も広域だが、呼子、伊万里、松浦市。
このあたりが末盧国の候補となる。奴国を須久岡本遺跡だとすれば松浦市あたりまで行く。

そもそも、古代は海路の方が楽なはずなので、直に伊都に入れば良いだろうにと思うのだが、唐津が良港だから唐津に入ったと言うならまあ頷ける。
しかし唐津ではないとしたら、一体何故末盧から上陸したのか。
つまらないところに引っかかってしまう。

松浦は倭寇や松浦党など、海の武装集団に事欠かない。
古代もそうで、だから海の上の護衛に雇われた、とか?

あるいは呼子だとしたら、出来るだけ早く上陸したい理由があった?

不彌国は宇美?

東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家

ここからはたくさんの人が様々な比定をしている、まさに邪馬台国問題の醍醐味に入ってくるところだ。
不彌国は、どうやら水辺にあるのだが、奴国から東に向かうという。

ここで研究者は短里だのなんだの持ち出して計算を始めるが、そんな計算をしなくても魏志倭人伝の中に尺がある。伊都-奴国間が100里なのでこの長さを使っていけばいいのだ。

普通の地図で奴国から東に行くと飯塚市になる。
割と優勢なのが宇美町説だが、百里ではない上方角も東南で、ここまで通説が方角を無視してるとは思わなかった(苦)
しかも海辺じゃないし。

ここまで地図が一貫して回転しているので以後も回転した地図を使うことにする。

東南、丁度宗像大社がある手前あたりだろうか。
地図を見ると福津、福間とある。福間、フミ……。
本当に地名残ってるんだ……。

②につづく!

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