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【はじめてのnote】自己紹介

はじめまして!
アロマで起業を目指す yuAReT(ユアレット) といいます。

現在はフルタイム正社員で、二児の母でもあります。

夢の実現を加速するために
1人で空回りして挫けないために

yuAReTはワーママから起業する軌跡と
それにまつわるあれこれをnoteに残します。

温かく見守っていただけると嬉しいです^^
今回は自己紹介をさせて頂きます!


I.現在

年齢:1986年生まれ

拠点:千葉県

仕事:コンテンツ業界・宣伝広報職・フルタイム正社員

趣味:読書、手芸、日記を書くこと。
「物語」が大好きで、ママになるまではアニメ鑑賞やRPGゲームも趣味でした。
好きな小説は、有名な作品だとミヒャエル・エンデ「モモ」。
子供の頃は、兄と一緒に「三国志」や「水滸伝」など戦記物・歴史小説、
ファンタジーをよく読みました。

性格:真面目・慎重・刺激に弱い

資格:IFPAアロマセラピーコンサルタント(修得中)
   IAPAアロマ調香スタイリスト
   フィトライフ コーディネーター

家族:夫、6歳息子(繊細型)、3歳娘(意思強型)

  • なぜ「起業する!」と思ったのか?

  • なぜ「アロマセラピーを主とする植物療法」を選んだのか?

過去の自分を振り返りながら
この「なぜ」の理由を追いかけてみたいと思います。

II.気持ちに蓋をした子ども時代

1.私は「好き」が分からない

幼少期は家族の、特に母の意向を強く受けていました。
私は「それで喜んでもらえるなら」と受け入れる性格でしたし、
また「嫌だ」と言ったとしても、聞き入れてもらうことはありませんでした。

「淡い色が好きだ」と言うと、
母や姉から「あなたは色黒だから似合わない。原色にしなさい」と言われ、
薄いピンクや水色を選ぶことはできませんでした。

「フリルのワンピースを着たい」と言うと、
「こっちの方がいい」と母や姉好みのTシャツとスパッツを渡されました。

年ごろになって肌質の変化が気になり、「洗顔料や化粧水が使いたい」と言うと、
「まだ早い」と与えてもらうことはありませんでした。

漫画や雑誌はダメ。ドラマもダメ。特に恋愛ものは絶対禁止。
大河などの歴史ドラマはOK、コスメやスキンケアは禁止などなど、
兄や姉には課されていないルールがたくさんありました。

こういった自分の感覚、感性を認めてもらえない経験の積み重ねは、
「私はなにが好きなのか、分からない」という状態を生み出しました。

あなたの 「好き」は なんですか?

そして、「私は何が好きか分からない」状態に陥っているということすら、
自立して家族から離れるまで、明確に自覚することはありませんでした。
ただモヤモヤとした気持ち悪い感覚がありました。

2.私は「足りない」が付きまとう

私には9つ上の兄、7つ上の姉がいます。
文字を書けば「あなたの字は小さくてつまらない。姉のように大きくのびのびと書け」
走れば「遅くて見ていてつまらない。姉はリレーでごぼう抜きなのに」
と、兄弟間で「比較」される場面が多かったです。
それは「私は字が下手」「運動が苦手」のような“呪い“にもなりました。

学年が上がるにつれて、
教師から「成績が良い」「品行方正」「ノートの取り方が素晴らしい」など褒められるようになると、
母からは「あなたは勉強ができる賢い子」と評価が更新されました。
読書感想文や消防ポスター制作などで受賞すると、
更に「いい子」のレッテルが強化されました。

名誉挽回めでたしめでたし、、とはならず、
兄弟間での比較が均衡すると、校内での評価の比較に移っていきました。
「あの子がいつも主席なのね」「あなたはいつもあと一歩よね」など。。

この経験を経て「◯◯と比べて、私は劣っている」
という思考に陥りやすくなったと思います。

注いでも 注いでも 足りない

自分が不十分だと感じる、一人前ではない、まだ足りないという刷り込み。

それは今も引きずっていて、
謙虚さと言えば聞こえはいいですが、
怖がって準備を重ね、なかなか行動に移さない側面だとも思います。

中学時代に両親が離婚し、父親の借金が母にのしかかり、
家計は一気にピンチになりました。
箱入り娘で育ち、ずっと専業主婦だった母は
持ち家を売り、所有する財を売りに売りました。
それでも足りず、電気やガスがちょこちょこ止まり、
玄関の外に怖そうなお兄さんがいたこともありました。

電気やガスが止まることはあまり気にしていませんでしたが、
怖そうなお兄さんや父親が時々来るのは恐ろしかったので、
家の中でも音を立てず、窓に近づかず、
気配がすれば匍匐前進をして隠れ
忍びスキルを上げていました。
家の中が荒れに荒れた時期。
私はストレス性胃腸炎によくなり、放課後はよくベンチで蹲っていました。

なんとか家族4人で生き延びて、
私は進学校に通わせてもらい、大学を見据えていました。
ファッションデザインやヘアメイクなど、
小さい時からひっそり胸に秘めていた憧れには、蓋をしました。
母からは
「大学に行きなさい」
「あなたは勉強ができるんだから、法学部に行って、司法の道に行きなさい」
と進学先を指定されました。

どこにでも行ける と思っていたのは いつだろう

私は海外にも憧れがあり、
「外語大」や留学についてよく調べていたのですが
「言語を学んで何になる。それで食えるか」と一蹴されてしまいました。

しんどい思いをした母にとって、
1人で食っていけること、
社会的身分と安定的な収入を確保することは外せなかったのでしょう。
言語を学んで、そこから道を拓くことは十分できると思いますが、
当時はそこで喰らい付いたり、
「奨学金に申し込んで、私は私の道を行く」とは啖呵を切れません。
当時の私は従属的な、いい子ちゃんです。
なんとか母の意思を汲み、折り合いをつけようとします。

それでも、どうしても法律を学ぶことには惹かれなかったので、
大学の学部リストや紹介資料と睨めっこした結果、
法学部「政治学科」なら折り合いがつけられると割り切りました。
メディアから見る“政治“に興味は全くありませんでしたが、
学ぶ上では歴史や、当時のプレイヤーたちの思惑、心理戦、文化背景など
興味を持てる切り口がいっぱいありそうだと思いました。

母はそこまで大学の学部編成などに明るくない。
「法学部」でありさえすれば、
司法の道を選んでいないことは恐らくバレないと踏み
許可を得て受験、無事合格した大学へ通い始めました。
そして2年後、途中で学費が払えなくなり、大学の奨学金を受けることになります。(自分で学費を出すなら、自分の好きなことを勉強したかった。)

記憶も遠い幼い頃から、

私は、家族、特に母の意向を尊重して(強く意志を示すことができず)
自分の感覚、感性、気持ちに蓋をして、許される中で選択してきました。

キラキラしてるけど しまっちゃおう 
ダメって言われたから

3.香りの原体験

ここまで書いていると
親家族にあまりいい感情を頂いていないのでは、と思われるかもしれませんが

「よしよし」と抱っこしてもらったこと、
可愛い可愛いと言ってもらっていたこと、
週末の朝は母の膝に頭を乗せて、ずっと撫でてもらっていたこと、
週末はおしゃべりしながら海沿いまで犬の散歩へ行ったこと、
毎日学校であった事の話を聞いてくれたこと、
クラスメイトからいじめられた時、真っ先に私を守り、外には広い世界があると教えてくれたこと、、
日々の風景を思い出すと、愛はそこにあったと感じます。

私にとって母は、
にがく苦しい思いを呼び起こしもしますが、絶対の愛の象徴でもあります。
姉であっても、兄であっても同様です。

私は思いに蓋をして、不安や緊張が強く、
幼少期から喉づかえや腹痛など、ストレス症状が出やすい子でした。

小学受験をして、小学校へ電車通学を始めた頃
1時間かかる通学に不安を感じ、
乗り換え駅で動けなくなってしまう時期がありました。
母に電話をしたところで、さっと迎えに行ける距離ではありません。
毎日かけていれば、段々うんざりした声色が聞こえるようになります。

公衆電話の受話器を取りながら
どうせ助けに来てはくれないという落胆と、
忙しない大人たちの群衆に取り残される心細さを
感じるようになっていきました。

そんな中、母は私をそのまま放置した訳ではありません。
ある日、母が愛用しているコロンをハンカチに含ませて、持たせてくれました。
不安を感じて足が止まりそうになった時、
エスカレーターに乗りながら、ハンカチを取り出して香りを嗅ぐ。

それは電話をして言葉を待たずとも
母がいつでも一緒に感じられて、
母に抱きしめられているような安心感を与えてくれました。

母の愛、母の香り

母を思い出す香りが私に安心感と勇気を与え、
歩みを進めることができたのです。

香りに救われた、香りと共にあることで進むことができた
私の「香りの原体験」です。

また、畏怖の対象だった姉とも、香りの思い出があります。
京都へ家族旅行に行った時、姉とお揃いで扇子を買ってもらいました。
7つ年が離れていて、関心ごとも異なり、普段はお揃いなんてありえません。

扇子にはお香が焚きしめられていて、
箱を開ける度、扇子を開く度、ふわっと穏やかな香りが広がりました。

扇子を涼を得るために使うというより、
繊細な細工や愛らしい兎のあしらいより、
姉と同じ香りを感じて、一緒にときめく瞬間にドキドキしました。

お互いに煽ぐたび、
「いいにおーい!」と2人で目をキラキラさせる、この経験。
「カッコよくて自慢のお姉ちゃん」とのつながりを感じられた、大切な思い出です。

お姉ちゃんとは すっかり仲良し

III.私の「好き」を見つけた20代

1.はじめて母と喧嘩した日

いい子ちゃんで育ってきた私ですが、就職を目の前にして自己分析をする程、
親家族に言われて従ってきたことは
全く「自分を語る要素」として出てこないことに気づきます。

様々な禁止ルールがあった中で、
兄と一緒に遊んで夢中になったRPGゲームやアニメーション鑑賞は、
比較的自由に触れてきました。
皮肉にも、私から出てくる嘘のない情熱的な言葉は
それらに対するものばかりでした。

また大学でロシア政治の講義を受けていた時、
「冷戦中のような国交が正常ではなかった時
アニメーションのようなエンターテインメントが(違法に)渡り、
コンテンツに親しむことによって相手への好意、好感度が上がっていた」
という話を聞きました。
それって、アニメーションが世界平和に役立ってるってことじゃない?
と思いました。
就職活動では、どんな社会貢献を描いているのか、語る必要があります。
世界平和より壮大で、皆がハッピーになる社会貢献はない。
これだと確信しました。

建前をまことしやかに話すような世渡り上手ではないため、
エントリーしたのはコンテンツを扱うエンターテインメント系の企業ばかり。
そして選考が進んだ企業は関東圏ではありませんでした。

業種や地域を母の耳に入れた途端、
「そんな先行きの分からない会社はやめて」
「すぐにあなたの様子を見に行けない場所じゃない、近場にして」
と非難の嵐。
それでも、この時の私は珍しく食い下がります。
私の中の情熱も、社会貢献のロジックも、
「これだ」と自信を持って見出したものでしたし、
何より母から離れたかったのです。

思考を否定され続けるのはもう苦しかったし、
当時母には後日再婚することになる男性がいて、
その人と3人で同居している状況でした。
知らない壮年の男性がいる生活。
恋する母は、母というより女性です。
大好きだった母の何かが変わっていく、私が煩わしそうな場面がある。
大学時代の私は居場所が無く、よく泣き、ヘッドフォンで常に耳を塞ぎ、
友人の家に入り浸って、逃げていました。
母ではなくなっていく母を、目の当たりにしたくなかった。

「私は絶対ここの最終面接を受けにいく」
これまでにない強固な姿勢に、母は声を荒げて言いました。
「私をひとりにするつもり?!」

あなたにはもう連れ添う人がいるじゃないか、
私がひとりで泣いていても、あの人しか見ていなかったじゃないか、
と言いたいのを堪えて、年末は帰省するから大丈夫、と淡々と続けました。
ロジックを立て、情熱を持ち、かつ情に流されない冷淡とも言える態度で、
私はついに自由を勝ち取りました。

2.自由を手に入れた日

大学を卒業して、飛行機移動が必要な未知の世界で、
私の一人暮らしは始まりました。

自分で稼いだお金で自分の家を借り、
食材を買って自分の食事を作って食べ、
休日は「さあ今日は何をしよう」と時間の使い道を考える。

圧倒的な自由にワクワクしました。

アットホームな空気感とやさしい仲間、仲の良い同期、自分で選択した充実感。
初日から勤務時間が21時を越え、土日も余興の準備や仕事をしていても、
ただただ楽しい。キラキラとした時間でした。

ワクワクしかない

3.運命の出逢いがあった日

充実した時間の中で、過去感じていたモヤモヤが突きつけられました。
「私が好きな色ってなんだろう」
「私ってどんな服が着たいんだろう。服屋さんに入るのが怖い。私が服屋に入るなんて、生意気すぎる」
「化粧の仕方がピンとこない。就活セミナーで習った以上のことが分からない」

持て余すほどの時間の中で、
自由に慣れない私は毎回似たような道を散策しました。
呪いにかかっている私には、服屋やコスメカウンターのような
「かつて禁じられていた場所」が怖くて仕方ありませんでした。
大好きなのは本屋さん巡りで、街でも大きい書店を
最上階からつぶさに見て回るのが休日の日課でした。

そこで出逢ったのが、おさだゆかりさんの「北欧デザイン」の本。

目がきゅっと離せなくなり、
文字通り心臓が高鳴るのを感じながら本を手に取り、
2、3ページめくっていくとどんどん吸い寄せられ、
最後のページに行きついてはまた表紙をしみじみと眺め、
またページをめくり……を何度も何度も繰り返しました。
そして勿論、固く本を抱きしめてレジに向かいました。

それからというもの、書店を隅から隅まで巡って、
ときめく本を探しては買い、探しては買い、
「ときめき本棚」を作り上げていきました。

大好きな「本」が、新しい世界を見せてくれる

北欧デザインから雑貨やインテリア、ライフスタイルに興味を持ち、
お気に入りになったスタイルの雑貨やカトラリーを少しずつ揃え、
ドレスやオートクチュールのデザインに惹かれて
ファッションのコレクション雑誌を漁り、
世界の刺繍図鑑を眺めてリュネビル刺繍や布花作りを習ったり、
デザインやカラーコーディネートを学び。。

これが私の「好き」だと、心が震えて、熱くなる。
「好きが見つかる」
好きなものを選び集める日々を経て、友人たちを家に招くと、
入った瞬間、どの子からも「yuAReTらしい部屋だ」と口を揃えて言われました。

主観だけじゃない、
私が選び取っているものは、客観的にみても「私らしい」ものだということが、また喜びを増しました。

4.こころが壊れた日

自由を勝ち取った社会人生活はキラキラと愛おしいものが溢れていましたが、
新卒で入社した企業は昭和気質で、
寝ないで働くのが正義、誰か残っているのに先に帰るのは悪、
社長や上司には黙って従い賞賛する、
サービス残業は当たり前、、などの所謂"黒い"会社でした。
土日も休日扱いで働き、
上司からは「お前に意見は求めてない」「失敗すればお前の責任」と言われ、
昼夜箱詰めにされた人たちのドロドロとした人間関係が渦巻いていました。

穏やかでたのしい人たちが沢山いて、それは拠り所にもなりましたが、
私の心は日に日に蝕まれました。
急に涙が出て止まらない、耳鳴りや眩暈、吐き気などの身体症状から
心療内科にかかり、
身体表現性乖離障害、その後パニック障害と診断されました。
会議室や公共交通機関、劇場などの閉鎖空間に恐怖を感じ、
発作が起こり、思考も正常には出来なくなって
日々の生活が困難になっていきました。

医師からもらった頓服の精神安定剤を常にポケットに潜めながら、
数ヶ月後、もう辞めようと決めました。

5.アロマセラピーと出逢った日

退職して仕事を手放し、東京に戻り、
しばらくぼーっとする日々を過ごしました。

時々散歩をして、道ゆく親子、花壇の花々、空の色を目で追いました。
時間の流れは穏やかでゆったりとして、やさしかった。

少し遠出が出来るようになると、アロマサロンに行くようになりました。
優しい声かけと精油選び、ハンドトリートメントに安らぎを感じました。

トリートメントが主なサービスの場所が多い中、
決められた精油のブレンドの中から選ばせるのではなく、
丁寧で対話的なカウンセリングをして、
ひとつひとつ精油を提案してくれるセラピストさんに出会いました。
彼女から
「あなたにはイランイランが合うと思うけど、どうですか?」
と差し出され、嗅いだ時の衝撃は忘れられません。
胸の奥まで香りが広がり、染み渡り、落ち着きと安心を感じられました。
「これ、すごく好きです!」と興奮気味に告げると、
「凄くお疲れなんですね…」と労われたのを覚えています。
香りの感じ方で、心身の状態まで分かるのかと驚きが重なったことが印象的でした。

IV.自分でいる時間がなくなる30代

1.ママになった日

ティーンの頃から生理不順で、
大人になってからは3ヶ月生理が来なかったり、1ヶ月近く出血が続いたり、
生理痛が重く道端で動けなくなったりしていました。

婦人科では多嚢胞性卵巣と診断され、
結婚し妊娠を望むようになってからは、お薬を飲んで周期を整え、
タイミングの指導や着床維持のためホルモン注射を受けました。
医療のサポートを受けて無事子供を授かると、早々に悪阻が始まりました。
食べ悪阻、飲み悪阻、におい悪阻、涎悪阻、、様々な症状が出て
4ヶ月程休職し、寝たきりになりました。
毎日窓から空に浮かぶ雲を眺めて、
時々レモンやグレープフルーツの精油をティッシュに垂らして
気分転換をしていました。

そしていよいよ分娩が近づくと、
骨盤が狭いこと、生まれてくる子が大きいことから
帝王切開を行うことを告げられました。

入院中、看護師さんが精油箱を持ってきてくれて、
「何か好きな香りはあるかしら、ちょっとでも気が紛れたらいいんだけど」と
見せてくれました。

その時、ラベンダーのフランス産とブルガリア産を嗅ぎ比べて、
同じラベンダーなのにこんなに香りが違うのかと驚き、
「私はブルガリア産の香りが好みだなぁ」と感じました。
ハーバル調が印象的なフランス産と、少し華やかさと甘さがあるブルガリア産。
看護師さんは不安や緊張を一時忘れて、香りに心を澄ます時間を作ってくれました。

2.ふたりぼっちの日

子どもが生まれると、私の真面目な気質と
息子の繊細な気質が相まって、産後うつのような状態になりました。

息子はなかなか寝つかず、終日よく泣く子だったのと、
周期性好中球減少症という、毎月一定の間
白血球の中の好中球という成分ががくっと減り、
病気にかかりやすい時期があるという症状がありました。
彼は生後2ヶ月に予防接種を打った時にその接種したウィルスに罹患し、
そのまま入院して診断名がつき、それから1歳半ころまで毎月通院しました。

出来る限り風邪をひかせまいと、
子育てサロンのような交流の場や人混みには出向かず、
2人っきりで毎日を過ごし、
体調が不安な時はリビングや寝室で抗菌作用などで知られる
ティーツリーを香らせるようになりました。

そして繊細な息子は癇癪を起こしやすく、細かなこだわりもあったため、
3歳から療育に通い始めました。
常に気を張って彼の傾向を観察し、癇癪を防ぎ、起きれば宥め、
こだわりにつきあい、発達についての本を読み漁ってヒントを探す日々。
ゴールの見えない息苦しさを感じていました。

その息苦しさを紛らわすように
育児休業中にアロマセラピーの資格の勉強を始めました。
20代、アロマサロンへ足繁く通っていた頃から興味はあり、
書籍を色々あたって自己流で楽しんでいた香りに対して
「こんなにずっと気になって仕方がないなら、しっかり学ぼう」
と決心しました。
それが自分の気晴らしにもなり、
「今の私は停滞しているわけじゃない」と感じることもできました。
息子のことで暗中模索する母としての自分以外に、
学びたいから学ぶ、ただの私の時間を持ちたい、という抵抗でもありました。

3.役割に追われる日

2社目となる就業先で産前産後休業、育児休業を取得し、
時短勤務で復帰しました。
その間に夫は転職し、不規則な就業や出張を伴う仕事になった中、
私は去年2023年、下の子が3歳になった日からフルタイムに戻りました。

平日の夜は基本ワンオペです。
夫に土日勤務や出張が入れば、勿論ワンオペです。
宣伝や広報というお仕事は、
イレギュラー対応や緊急対応、深夜残業や朝まで対応、
土日稼働や出張もあるあるな職種です。

私は会社の制度を使って、リモートワークを多くしたり、
残業をあまりしないようにしたり、
家事育児に支障のないように工夫したつもりでした。

しかしそうすることで、
当たり前に求められる深夜対応や出張を
「申し訳ないのですが、対応できません」と毎度突っぱねることになります。
同僚とのコミュニケーションは圧倒的に減りますし、
快く思わない方も出てきます。

子供のため、家族のため、それがきっと自分のためと思って
仕事も家事も育児もと頑張ったものの、
仕事での評価も振るわず、同僚から白い目で見られ、
家の中は散らかり放題、学校のお便りも十分に目を通せていない、
子供達には「仕事だから」と夜まで帰宅が許されない状況を作っている。
自分自身は人のためばかりに時間を割いている感覚に陥って
疲労と孤独と苛立ちが募り、結果子どもにあたる鬼母になりました。

やさしい母親になりたかったのに、なれると思ったのに、
毎日子どもたちに怒鳴り散らし、罪悪感に苛まれることの繰り返し。
自分の内なる声、
「休みたい」
「ひとりになりたい」
「たまにはママでも会社員でもない、ただの私になりたい」
「好きな手芸をしたい」
「友達とおしゃべりしたい」
「憧れの場所へ旅に行きたい」
「もっと思いっきり勉強したい」

自分の内なる声から耳を背け続けた結果、
自分も周りも苦しくさせることになりました。

年末には引越しや娘の骨折入院がありました。
今年4月には息子が小学生になり、
娘は保育園を転園しました。
家族をめぐる環境は目まぐるしく変わっています。

家族の心身の調子を観察し、ケアするのも母の務めです。
その中で、余裕なく時間に追われ
「宿題は?明日の支度は?早く食事を食べ終えて、早くお風呂に行くよ」
と急きたてる私。
毎日毎分ケンカが勃発し、毎日誰かが泣いている。
慎重で保守的な自分の思考に、ヒビが入りました。
あぁ、もう変えようと。

4.すべての私を救いたいと思った日

家族の顔色を伺う小さい私、
飛び出す勇気が出なかった大学生の私、
会社への違和感を誤魔化し続けた新卒の私、
誰かのためだと苦しさを我慢するワーママの私。

過去も今も、もしかしたら未来の私も
私を救うことができるヒーローは、
私しかいないんじゃないか?

世界平和のためだと邁進したって、
自分を蔑ろにしているから
手にしたものをなんとか離すまいとこだわっているから
私のヒーローはいつまで経っても登場しないし、
ずっと苦しさがループしているんじゃないか?

突然生き方を劇的に変えることは難しい。
でも、言い訳をしながら我慢をして、苦しんでいるのは、
子どもたちも、私も、誰も望んでいない。

振り返れば、
香りはずっと私を支えてくれている。寄り添い続けてくれている。
少しずつ学びを深めて、生活の一部になった精油たちが手元にある。

香りの世界が黙って示してくれていることに、
私はもっと全身全霊で向き合って、応えたい。

素直であること。
自分の喜びやときめきを貪欲につかまえにいくこと。
力を抜いて、人目ばかり気にせず、自然体であること。
みんなの感じ方が異なるのは、当たり前であること。

生き方を変えたい。
自分で試して試して試した先に、気づきや恵みがあるなら
それを他の人に分かち合うことだってできるじゃないか。
それだって社会貢献になるんじゃないか?

私にとって、香りは「つながり」

子ども時代では、香りによって「他者とのつながり」を実感できました。
大人になってから、香りは「自分自身とのつながり」を取り戻すものになっていきました。

YuAReTにおける「香り」は、「自分とつながり、他者とつながる」ものです。

イランイランの香りで、深く苦しんでいる自分を感じ、
ニオイコブシの香りで沈んだ心が浮き立ち、
クロモジの香りで毎日の忙しなさから、今に戻ることができました。

香りは私を、見失っていた私自身とつなげてくれました。

そして
マンダリンの香りを嗅ぐと目が輝く子どもたち、
ゼラニウムの香りを嗅ぐと笑顔になる母、
ジュニパーや樹木の涼やかな香りが好きな友人、
ベンゾインやローズの甘い香りが好きな友人。

香りを通じて、会話する以上に
ひとの人柄や精神、体調を感じられるようになりました。
続けることで、その変化も察することができるようになりました。

なにより、
香りを感じる瞬間、ひとは素直になる。自然体になる。

好きも嫌いもあっていいし、
昨日は気に入ってたけど今日はしっくりこない、なんていうのも当たり前。

揺らぎを当たり前に受け容れられる。
蓋をしないで自由に、自然体でいられるのが、香りの世界。

好きか嫌か、心地いいか悪いか、
ロジックや刷り込みもすっ飛ばして
自分の感性を思い出させてくれるのが、香りの世界。

もっともっと深めていきたいし、
その世界で遊べるようになりたいし、
私と同じように
周りに応えようとして我慢し続けている、苦しくなってしまった人へ届けたい。
一緒に、自分を取り戻していきたい。そう思っています。

yuAReT にこめる想い

私も、あなたも、
歪つで揺らぎがあって、
正解も不正解もなく、上も下もなく
ひとりひとりが美しい。

その想いを、”You are ART.” という言葉に込め
”yuAReT” という造語を作りました。

自然体を取り戻し、
あなたの美しさが翳りなく輝くことを願います。

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