ごちそうさまが、いえなくて。ありがとうが、いいたくて。
その日で店をたたむ蕎麦屋は驚くほどいつも通りだった。違ったのは、揚げ餅が乗った名物「ちから納豆そば」が売り切れていたことくらいだろう。
ビルが立ち並ぶ大都会、丸の内。老舗の大劇場として名高い帝国劇場下とは思えぬ素朴な雰囲気が変わらずそこに漂っていた。「長い歴史の幕を閉じることに……」と感傷に浸るでもなく、「コロナのせいでこんなことに……」と悲痛な叫びを聞かせるでもない。おじさんの変わらぬ穏やかな対応。
「しなの路」は、丸の内で働くビジネスマンのみならず、帝国劇場を訪れる舞台ファン、そして、帝国劇場公演に出演・稽古中の俳優も御用達の蕎麦屋だった。帝国劇場でしばしば上演されてきた『Endless SHOCK』の座長、Kinki Kidsの堂本光一さんらも含まれる。同じビル内、より劇場に近い場所にメジャーチェーンのうどん屋ができたときは心配もしたけれど、広く愛されたその姿が変わることはなかった。
同じく長く帝国劇場公演に出演し、食通で知られる舞台女優の新妻聖子さんも、自身のSNSで「揚げ物好きの私に『揚げた餅を乗せた蕎麦』という魅惑の食べ物を教えてくれてありがとう」と感謝を寄せる。
「私も同じものが食べてみたい!」、最初は単なるミーハー心だった。しかし、やはり揚げ餅に魅了され、今までそれしか食べたことがないかもしれないほど。天下の帝国劇場に舞台を観に行く際は、どんな作品であれ、高揚する。自分が熱心に応援している俳優が出ていようものなら胸はますます高まる。そんな“ハレの日”に立ち寄ることが多かったから、もしかすると味は3割くらい増しで記憶されている可能性も否定はできない。しかし、長きに渡って重ねてきた思い出の隣に、寄り添うようにしてあるのがこの「ちから納豆そば」だった。
私はその夜に限って「ごちそうさま」が伝えられなかった。一言発したら、いや、発しようとするだけで涙腺が崩壊しそうだった。鼻水も出そうだったが、すするのは蕎麦だけでいい。店のおじさんが明るく振る舞っているのに、ただの客が泣こうものなら台無しだと何度も言い聞かせ、堪えようとした。が、そう思えば思うほど歪む顔。閉店に追い込んだであろうコロナのせいで着用しているマスクに隠れ、少しホッとしている皮肉な状況にますます泣きたくなった。
でも泣かなかった。「しなの路」は明日もやっている。そう思える希望とともに見送ってくれたから。「しなの路」はずっとそういうお店だった。
だからこそ「ありがとう」を伝えたかった。そのために最終日に寄ったのに情けない。今、この文章を書いているのもやっぱり後悔しているから。
ごちそうさまが、いえなくて。
そして……
ありがとうが、いいたくて。
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