不慣れなことを「不得意の箱」に入れるのをやめたら、まずやってみようと思えるようになった
車の運転が日常になって約4ヶ月。運転にはまだまだ慣れず、ドキドキする日が続いている。
でも、運転を不得意だと決めつけるのはやめようと決めている。
今のわたしには、とても大事な選択だった。
自分で不得意の箱に入れてしまったとしたら
仮に自分で不得意な箱に運転を入れていたら。
今日は車で移動してみようかなと思っても、
事故を起こしたらどうしよう。
歩いて行こうかな。でも遠いからやめておこう。
と、何とか運転しなくて良い道を選んでいた気がする。
そうすると、私の運転経験値はずっと横ばいで、不得意の箱から自分自身で抜き取ることが困難になるサイクルだったと思う。
不得意なのではなく、これまで運転する環境になかった。
運転を不慣れの箱に入れて、得意不得意かを自分で決めるのは保留にした。そもそもどんなフェーズにいったら得意と言えるんだ。
そんな考えに至り、まだ慣れてなくて知らない道なのだから、調べて行ってみようと、運転の1歩が踏み出せるようになった。
もちろんうまくいく日ばかりではない。
いつの間にか左折専用レーンになって、思い通りの道に全然進めず20分以上タイムロスをすることもあるし、ウィンカーを早く出しすぎることもある(まわりのドライバーのみなさま、すみません)
それでも。
自分本位なのは重々承知のうえで、1回通った道は心理的負担が全然違うし、一度二度三度とその道を運転するたびに、この道は先にこっちに入っておいたほうがいいなとか、自分で計算できるようになってきた。
もしわたしが、運転を自分の不得意な箱に入れて、運転する選択をしなかったら。
ほんとうは一度二度と増えるはずの経験が増えていかず、運転がどんどん不得意の箱の奥底に沈んでいってしまうかもしれない。
自分で、運転を不慣れの箱に入れたことで、今のわたしのマインドができているんだと思う。
なにごとにも当てはまるよな、この考え
今年は、運転がわたしの中での大きなチャレンジだけれど、改めて考えたら、これって他のことにも転用できそうだ。
例えば、仕事の会議進行がすごく不得意だとする。
でも、その会議は月1回しかなく、最大で年に12回しか役割が回ってこないとしたら、不得意なのではなく、「緊張してまだ慣れていないだけ」なのかもしれない。
「不得意を改善するのではなく、得意をのばせ」はよく聞く言葉だ。
たしかに得意なことで突き抜けられたらいい。でも、不慣れを不得意だと判別を誤ると厄介な気がする。そんな感覚を持っている。
今回のnoteを書こうと思ったとき、あるnoteを思い出した。
「できない箱」に入れていたことも、だれかの助けで「きっとできる箱」に移すことができるんだと、勇気をもらったことをおぼえている。
そして、これからはできるかぎり、何事も自分の手で「きっとできる箱」に入れておきたいと感じた。
🚘🚘🚘
実は、今回のnoteは、運転をしながら音声入力で文字起こしをした言葉が8割を占めている。
車内は、わたしの気持ちを整理するたいせつな場所になりつつある。