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自分が選んだ環境で、与えられた条件の中で、どれだけ自分がやりたいことをやれるか。
こんばんは!結和です。
今日はめちゃくちゃ真面目な内容です。
導入はさらっと。
社会人1年目のときから心に留めていることをお伝えします。
自分の意志を"孤独"に貫いたとき
私は大学卒業後、「フリーター」の道を選びました。
アルバイトをしながらダンススタジオに通いプロダンサーを目指すことにします。
母校は就職する(大手も十分狙える)人が多数だった中、私はどうしても新卒会社員として働いている未来が想像できず、就活をほぼ放棄してました。両親との仲は日々悪化し、何度も夜中まで「いつ就職先は決まるんだ。どんな企業を受けているんだ。どうするんだ。」と家族会議が開かれていました。
今から思えば、地元のバレエ教室に通い詰めていただけで、何もダンサーとしてお仕事が獲得できるようなひっかかりがなかった私が「ダンサーになる!」というのはかなり無謀な判断。ましてやB案もなかったので、両親が心配するのも納得です。笑
今はめちゃくちゃ仲良いです。とてもとても助けられてます。
一方で、「本気でダンサーを目指したことがないからこそ、ダンスに時間を注ぎ込み限界まで挑戦しないとわからないじゃないか!!!」
という考えも譲らず。
これまで、中学受験・大学受験・短期留学(8ヶ月の予定を4ヶ月で挫折したが)を経験し、きっかけは両親でも最終的には自分の意志で志望校を決め、両親にたくさん支えてもらいながらやりたいことをやってきましたが、初めて両親との方針がズレた瞬間でした。
結局、両親の反対を押し切って「フリーター」として"孤独に"社会人をスタートします。
※幸い実家には住まわせてくれました。
体感してわかった"ズレ"
ダンサーとして仕事をもらうキッカケがまったく無かった私は、一度夢見た「ディズニーダンサー」をまずは目指すことにします。
全くもって簡単な道ではないですが、クローズドな業界である中、公にオーディションを実施しており道筋がハッキリしていたからです。
そのために、テーマパークダンサーに強いダンススタジオの通年プログラムに通い始めます。
しかし通い始めて4ヶ月でテーマパークダンサーを目指すことを辞めます。
理由は
①テーマパークダンサーは拘束時間が長いことが判明する
待機時間が長い、深夜のリハーサルがある、など時間の縛りがかなりあることを知り、いろんなことをやりたい自分にとってはかなりの障壁でした。
②ディズニーは大好きだが偏りがすごい
年パスを2年持っており、TSUTAYAで昔のから最新までCDを借りまくって毎日のように聴き、Disney on Classicも幾度となく足を運び、ディズニー自体は大好きでしたが、好き!と言えるものとそこまでじゃない、のギャップの大きさに気づきます。
私のお気に入りは「15th Anniversary ディズニーカーニバル」「ミッキーマニア」「イースターワンダーランド(うさたまは含まない、つまりもうピークは過ぎている)」
レッスンでよく使われるような、定番のイベントやにはそんなにときめかなかったんですね。
「いくら好きでも、これではメンタルが持たない」そう思いました。
③テーマパークダンス<リリカルジャズだった
テーマパークのスタジオに通い始めてから行く機会が減ったDanceWorksに、数ヶ月ぶりに行ったら気持ちよいのなんの…
テーマパークダンスも好きですが、私はこっちが好きだ!と再認識しました。
④初めてカメラマンとして認められた
大学を卒業するときに、ダンサーを目指すと同時にカメラマンとして活動することも視野に入れてました。
ですが、ダンサーはどうしても賞味期限があるのでまずはダンスに専念、カメラマンは30歳くらいで本腰を入れよう、と思ってました。
しかしこの年の7月に、8年も早くにチャンスが訪れます。
友人の音楽ライブを観に行き撮った写真をプレゼントしたら「仕事で依頼をするのでぜひ次回も写真を撮ってほしい」と連絡が…!
私はこれを機に「ダンスとカメラを同時に頑張る」と決めます。
あくまでも「ダンス」は広義で捉えてください。
仕切り直し
さて、テーマパークダンサーになることを辞めた私は、意を決して1年通うと決めたダンススタジオに行き続ける理由を見失ってしまいます。
夏真っ只中の8月は仮病で休む日も増え、ここでまたB案を用意することなく、スタジオの社長にある日唐突に退職届と同じ書式で「退会届」を渡しに行きます。
ですが突然の出来事。当然のことながら社長には引き止められ個人面談をしました。
そのとき社長に言われた言葉で覚えているのは
「今の様子と話を聞いてる感じだと、たぶん、今辞めたら、今後何しても途中で投げ出す、同じことを繰り返すぞ。」
アルバイトしながら、地道にカメラやるか〜でもなあアテがないんだよな〜
とぼんやりしていたのが顕になってたのでしょう。
それに、たぶん自分でもどこかで自覚していたんだと思います。
両親の反対を押し切って飛び出した次第。あとがなかったんですね。
なのでこの言葉はとても刺さりました。
結局8月に1ヶ月ほど休んだあと、卒業するまでやり抜くと決断し、9月に復帰します。
自分が選んだ環境で、与えられた条件の中で、どれだけ自分がやりたいことをやれるか
このときから、心に刻み込んでることがあります。
ー自分が選んだ環境で、与えられた条件の中で、どれだけ自分がやりたいことをやれるか。ー
「テーマパークダンスのスタジオに1年通う」という環境を選んだのは自分です。
ですが、各環境にはやはりいくつか「条件」が与えられます。
この場合は、1年という縛り・毎週決まった時間に決まったレッスンが組み込まれている・卒業公演がある」「レッスン代を自分の少ないバイト代のみで賄う」などです。
さらに「テーマパークダンサーにはならない」という条件も自分に課します。
この条件の中で残り約7ヶ月を過ごさなければなりません。
まず、カメラで仕事をするために、毎日スタジオにカメラを持っていき、行き帰りの道中、レッスン前後の様子、ハロウィンの仮装をする日…とにかく同期の写真を撮りまくってはLINEグループのアルバムに次々と追加していきました。
また、自分のがんばりに応えてくれた同期が「アー写を新調したいから撮ってほしい」と声をかけてくれ、お互いの同意のもと金銭の発生は無し、初めてアーティスト写真を撮ります。私のポートフォリオにもなる大事な大事な写真でした。
彼女とは卒業した今でも一番の仲良しで、お互いの仕事を応援し協力し合ってます。
この地道な活動が功をなして、今でも彼女以外の同期も撮影依頼をくれます。
レッスンには一切関係のない活動に協力してくれた上に、今でも頼ってくれてみんなありがとう。
次に、卒業公演に向けた演劇の小道具、パンフレット作成を担当します。
パンフレットで使用する写真は持っているもので十分だったのですが、みんなに頭を下げて「撮らせてほしい」とお願いし、復習や卒公の練習に当てたいレッスン後の貴重な時間を割いて撮らせてもらいました。
無事卒業公演が終わると、最後にお世話になった先生へのお礼、記念Tシャツの制作、記念カレンダーが待ち受けてました。
お礼を渡す先生は10名ほど。とある日のレッスンが終わった後に会議を開き、誰が何をするか、スタジオ通い2年目の同期に力を借りながら、どんどん割り振っていきました。
記念Tシャツもみんなの同意を得た上でデザインを担当。発注も巻き取りました。
そしてここでまた地道な撮影活動が役に立ちます。
記念カレンダーに私が撮った写真が大活躍しました。我々は13期だったのですが、後にも先にもこんなに写真が充実したカレンダーはないようです。笑
お礼やTシャツの発注にかかった経費の換算や、進捗状況の管理も私がやっていました。
なんかこういう事務作業的なのができる人・やりたい人がいなかったんですよね。
だからといって、嫌嫌やっていたわけでもなく、楽しく作業をしてました。
このときの経験や得意が、後に出会う「おどらぼTOKYO」で再発揮されます。
無事3月に卒業を迎え、4月からはご縁があって会社員になりました。
ここまで私のわがままをたくさん聞いてくれた同期には、本当に本当に感謝してます。
大学を卒業して、フリーターでダンススタジオに通ったこの1年は、自分に自信が持てた大切な時間です。
このときの踏ん張りは今でもいろんな場面で力になっています。
自分の選択は自分に責任がある。これは良し悪しの話ではなく。
自分で選んだからこそ自分に権利がある。
「原因自分論」
自分の意志に手を当てて、自分がいる環境でできる選択(この環境から離れるというのも選択肢にある)をしていけたら、未来は明るい。
そう信じて今日も明日も邁進していきます。
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どうぞよろしくお願いします。
結和
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