見出し画像

親切を考察する

朝のゴミ捨てが好き。

面倒なゴミ捨てが好きなんて
なかなかそんなタイプの人間はいないかもしれない。

でも、ここにいるのだ。

なぜ私が朝のゴミ捨てが好きかというと
そのまま朝散歩に行けるからだ。

そう、朝散歩が大好きなわけで、
ゴミ捨てはそのついで。
でも、妻に感謝されたりするから
嬉しいし、好んで朝のごみ捨てに行っている。


親切は、自分がすると幸せを感じる


先日、いつものようにゴミ捨てに玄関を出ると
向かいの家のおばあちゃんも同じタイミングで
ゴミ捨てに出てきたところだった。

ゴミ捨て場は、歩いて30秒ほどの距離にある。
たいした距離ではない。
けど、とっさに
「ゴミ、持っていきますよ」
と、手を差し伸べた。
おばあちゃんが杖をついて歩いているのに気付いたのは、
声をかけたあとだった。

おばあちゃんは、ちょっと戸惑った表情をしていたけど
「いいの?ありがとう」
と言って、ゴミを預けてくれた。

できる限り笑顔を作って
「いいですよ」
と言ってゴミを受け取り、ゴミ捨て場へ持って行った。

ただそれだけのことだけど、
親切をしたという気持ちで
心が満たされる感覚だった。

親切は、
されるより
自分がすることで
幸せを感じられる。


おばあちゃんが本当にしてほしかったのは?


ゴミを捨てて、いつもの通りそのまま朝散歩へ。

親切なことをして、自分が幸せを感じているのは
あくまで自分が勝手に感じていること。

ふと、歩きながら考えたのは
おばあちゃんが本当にしてほしかったのは何だっただろうか?
ということ。

もちろん、ゴミを代わりに捨てに行ってあげたことは
おばあちゃんにとって嬉しいことだったかもしれない。
おばあちゃんの気持ちは、自分には分からないけどね。

散歩して考えたことは、
おばあちゃんは本当は話をしたかったんじゃないかな?
ってこと。

なぜそう考えたかというと、
向かいのおばあちゃんはよく、
ご近所さんと玄関の前で楽しそうに立ち話をしているからだ。

おばあちゃんは、何気ない立ち話にこそ、
喜びを感じるのではないか?

ゴミを受け取ったときの
ちょっと戸惑ったおばあちゃんの表情を思い出して
そんなことを考えた。

思い返せば、おばあちゃんと交わした言葉は
「ゴミ、持っていきますよ」
「いいの?ありがとう」
「いいですよ」
これだけ。

なぜこの短い言葉だけで終わったかというと、
私が散歩するときはいつも
音声配信をイヤホンで聴いているからだ。

そのときはイヤホンからの声に集中していたから、
おばあちゃんとの会話も必要最低限だった。

笑顔で言葉を交わすことだけは
意識していたけど。


相手をよく見て、究極のGiverへ


この話は、あくまで想像のなかの話。
もちろん、杖をついて歩いているおばあちゃんだから
代わりにゴミを捨ててあげるのは親切なこと。

それ以上におばあちゃんが本当にしてほしかったことを
考えている自分は、
心に余裕があったのだと思う。

余裕がなければ、
おばあちゃんの代わりにゴミを捨てたことだけで
満足してるかもしれないし、
代わりにゴミを捨てるということも
していないかもしれない。

本当に心に余裕がある人は、
相手が本当は何をしてほしいのか、
感じ取って、そうしてあげることができる。

普段、おばあちゃんがご近所さんと
楽しそうに話をしているのは知っていたけど、
音声配信と自分の散歩の続きに集中していた私は
究極のGiverではなかった。

普段から相手をよく見ておいたり、
とっさの判断で
相手が本当にしてほしいことを感じ取ること。

その「究極のGiver」になるには
自分の心に余裕を持つことがだいじ。

ちょっと空を見上げて
深呼吸をして
心に余裕を持つことから始めよう。




いいなと思ったら応援しよう!