去年、謎ガチャで出て来た金のたい焼きを飾りました
去年、謎ガチャで出て来た金のたい焼きを飾りました。正月飾り。めでたい、ということで。
アトリエの棚下に、積んでいる本からピックアップして置いています。
昨日、ヘーゲル「精神現象学」を読み進めました。冬はヘーゲルが読みたくなるかも知れません。
今朝はfripSideのシングルCD(とあるシリーズ4枚)を流しながらダンシング。
体がほぐれて、暖まりました。
昨日は快晴だったので、公園ウォーキングフォトをしました。ジュウガツザクラ。
プロフォトグラファーの方の記事で、写真の心得的なことが書かれていて、背中に目を付けろ、みたいなアムロが言いそうなことが書かれていましたが、その方のスナップフォト、何を見ているのだろう、何も見えていなくて、空虚が写っていました。
写真を言語化して思考する、みたいな記事も読みました。それだったら、まず言語化とは何か、認識とは何か、感覚と意識と無意識と概念の関係性(仕組み)について、カントでも読んで学ばなければ、感覚の前に用意された言葉をなぞる写真しか撮れないでしょう。
言語化とは、せいぜいが物語化された写真なのでしょうが、物語とは人間が勝手にでっち上げた連続性です。つまり、自分の都合の良いように見てはいないか、その内省を省いて、既成概念のようなイメージをトレースして撮る可能性が高まります。
やはり目の前のモノを感覚して見る前に、自意識が表出してしまう写真の何と多いことでしょう。
冬の薔薇に感嘆。
この感嘆に言葉は要りません。言葉にならないから感嘆するしかない、そして構図とは言葉であり、文章です(文体)。
言葉は感覚の後に追い付きます。その時、人は薔薇だと認識する。その認識に至るまでの過程が私にとってのスナップフォトです。
まず言葉を捨てること。言葉を捨てるとは自分を捨てること。人間を辞めること。なにものでもない私になって、ただ見ること。
私にとってヘーゲルの「精神現象学」は難解で、理解出来ません。ただ文字を見ているだけです。そうすると、時々、ちょっと分かるかも、みたいなところもあります。
音楽を流しながらダンシングをするとは、無心で体を動かすことです。ダンシングというか、頭を空っぽにして、音に合わせて体を動かしているだけです。
ここに動きの上手い下手などなく、感覚そのものになってみる。自分を動物=自然に還してみる。
写真の上手い下手があるというのならば、見るのにも上手い下手があるはずです。例えば上手く絵を見ることを考えると、批評的、解説的だとイメージする人が多そうです。
理論であったり、歴史であったり、正解があったり。
この延長線上で、写真の上手さを捉えている人が多いのかも知れません。
せめて、写真とは永劫回帰だ、ぐらい言ってくれないものか、と思う私でした。