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🍀なんなる18未来の種蒔篇(5)「許し許され」

早いものでもう12月。2024(令和5)年、インクルーシブ教育について思考を重ねるためnoteを再開して半年が過ぎたが、気づけばeccoさんという方の投稿記事を毎回楽しみにしている。

質の高い医療や看護、介護は、私は望まない

2065(令和47)年には約2.6人に1人が65歳以上、約3.9人に1人が75歳以上になると予測されている(令和4年版高齢社会白書)。私はヤングケアラーだった頃から、前頭葉損傷後遺症の兄をとおして精神障がい保健福祉医療の厳しい現実を見聞してきた。また、車椅子ユーザーの先輩から、障がい者福祉の厳しい現状を教えてもらってきた。

「自分が健康なときは医療保健福祉の厳しい現状から離れたところにいて、質の高い教育や質の高い暮らしを求め、やがて自分が年老いたり病に倒れたりしたときには、質の高い医療や看護、質の高い介護を受けて、心穏やかに逝きたいと願う人たちが多いのではないか。しかし、今の現状を見ると、それは『幻想』なのだと思う。放置されたり物扱いされても耐えられうる精神を鍛えるのが先なんじゃないかと思うくらいだ。」


先輩が語ったことは今も私の胸に突き刺さっている。
質の高い医療や看護、介護は、望めない。望まない方が賢明。
そんな現実が、ある。

そんな現実を目の前にして、eccoさんは提案してくださった。

「みんなができる範囲で、みんなで介護をすればいいのではないかしら。」
「ケアしている人が失敗しても、責めないで、成長の機会をつくろう。」
「人類全部にケアが必要になっても、人類みんなでケアをするから、大丈夫、生き延びることは出来るよ。」
「ケアする人も、ケアされる人も。みんな一緒。」

ひとつひとつが胸にしみた。

質の高い医療や看護、介護を望まない代わり、
「(自分も含めて)みんなで介護をする」んだ。
別に質が高くなくてもいいんだ。ケアしている人が失敗しても、お互い様の精神で許し合って、みんなができる範囲で、みんなでケアをするのがいいな。


私はだれかをケアしだれかにケアされる
だれかを許しだれかに許されながら生きる