なんなる13🇮🇹伊・ボローニャ滞在記第❹回の所感🇮🇹 一緒に学び成長する
幼少のころの、とある記憶
今回の記事を読んでて、私の幼少のころの、とある記憶を呼び覚まされずにはすまなかった。
それは近所の友だちとたくさん遊んだ、懐かしい思い出。
3歳直前に聞こえなくなった私は「聞こえない子は聾学校へ」と言われるがままに聾学校に通い始めたが、放課後やお休みの日はいつも近所の友だちと遊んでいた。
田んぼのどぶに落ちちゃったり、ありんこを追いかけたり、原っぱで秘密基地を作ったり、ブランコでどっちが高いか競い合ったり、だるまさんがころんだをしたり。時々ケンカもしちゃったな。ああ楽しかったなあ。
そんな私なので、聾学校と聾学校の近くの小学校との「交流学習」はあまり記憶に残っていない。向こうは「聞こえない子とはこういうふうに接してあげましょう」と先生から説明されていて、私は「聞こえない子たちが通う学校の子ども」として振る舞うだけ。
「交流学習」はその場限りなので、それっきり。その時に会った子の顔や名前すら忘れたよ。
一緒に学び生活するイタリア
フルインクルーシブ教育のイタリアでは、「支援教師」養成講座があり、グループごとに活動計画(中学生対象)を立てて発表し合っているそうだ。記事では、3グループの活動計画が紹介された。
【グループA:電動車いすの移動】
日本だと、教師がいろいろ調べて段取りをとっていくんじゃないのかな?でもよく考えたら、別に教師じゃなくても、子どもたちで考えることができる!
【グループB:想定しにくい事態が起きたときの対処が苦手な子のための手立てとして「目で見てわかる時間割表」を作る】
いわゆる「構造化」という手法を用いて環境を整理するんだけど、その手法を知っている教師にしか作れないというようなものでもないし、作る内容が分かれば子どもたちで作れる!
【グループC:人間関係づくりはちょっと苦手だけど計算能力にのびしろのある子にチケット販売の担当】
適材適所!これは障がいや病気の有無、年齢などに関係なく、どこでも一緒だと思う。だって「誰かに必要とされている」と感じられることは、すごく大事なことだから。。。
いずれも、子どもたち一人ひとりが社会を構成する一員として社会参加するための機会を(大人から与えられるものではなく)自分たちで創出できるように、工夫されていると感じた。私には、彼ら一人ひとりの顔と名前が見えてくるような身近さを感じた。
フルインクルーシブ教育のイタリアでは、子どもたちは一緒に学び生活している。お互いに名前を呼び合って、日常として、つながっている。
人はカラフルなのだ。
人の内面もまたカラフルなのだ。