見出し画像

名もなき煮込みに救われる夜だってある

夏暑すぎ!麦茶沸かしてこーな!という日々が、しかし終わろうとしているんだなと先日ふいに気付かされた次第である。

夜道を歩いていると、永遠などないのだ、喜びにも悲しみにも…といったデカいお気持ちがふいに訪れる気温(とはいえ29度とかあるんすわ)。今日なんかはすっかりぶり返して暑さが復活しているが、それでもなんというか、一度喧嘩してよそよそしくなった人ともう一回仲良くなったとしても「あんな雰囲気を持っているんだよな」とどうしても思ってしまうのにちょっと近い気持ちでいる。

いつだか賢い友人が、涼しくなると拡散していた自己が収束するような気がするという旨のことを呟いていて、そのあまりの的確さにいたく感動したことをまだ覚えている。涼しい気温に反応して、思考と自我の輪郭が木々の影の濃さと反比例式にくっきりとしてくるような気がするのだ。
あぁ小難しい話をしてしまった。本題は名もなき煮込み料理の話である。

先日こちらを読了し、血中ときめき濃度がめちゃくちゃ高くなってしまった

もともとスープやシチューの類はとても大好きだが、修道院という単語がつくと途端に神秘性を感じてしまった。私は無宗教ながら信仰の概念にそこそこ興味があって建築や美術、音楽など信仰に関する文化周りのことについて知ることが好きだが、レシピ本はあまり見てこなかった。とても素敵な本なので詳細はぜひ本編をお読みいただきたいが、印象として意外だったのは味付けが主に塩と胡椒でとてもシンプルだったこと。素材の味を温かさとともに味わう術としての煮込み。なんで素敵なんだろうとうっとりしながら読了した。で、影響されてこの夏の盛りに煮込んだわけである。レシピ本に触発されたがしかし今回作ったものは名のあるものではない。というか名などないことがほとんどだ。


この時のstaub鍋を今でもめちゃくちゃ愛用しているのだが、staub鍋はすごく私のキッチン運営と相性がよく、任意の食材を放り込んでオリーブオイルと塩胡椒を入れて蓋して小さめの炎にかけておくと全部美味しくなる。今回もそんな日々に倣い、レシピ本に触発されて牛肉と、玉ねぎ、エリンギ、あとはなんだったっけな…といったくらい曖昧な野菜群を煮込んだ。牛肉はちょっと美味しく食べたいので最初に鍋底をよく熱してから少し焼き付けるのが食いしん坊の生き様である。

そんなふうに作った煮込みが、思ってたよりもずっと美味しかったのだ…

爆盛りサラダとともに

食材の栄養がすっかり馴染んだ旨味のかたまりのようなスープに、具沢山の食感が楽しい。くたくたに柔らかくなったお肉も、煮込まれて透明になった玉ねぎも、つるつるぷりんなエリンギも、本当に美味しい。味付けは塩胡椒とシンプルにしたぶん、散らしたハーブが引き立って鼻も嬉しかった。暑いからと冷房や冷たい飲み物に頼っていたゆえに無自覚に冷えていた体に染み渡っていくようだった。

工程の定かでないレシピ、名もなき煮込み。そんなものばかり作っている人生だが、しかしどっこいそこには救いがある。平らげたとき何にも考えずに「あー、おいしかった…」と呟いてしまって、思わず笑った。

名もなき煮込み、大好き。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?